北大正門横にある交流プラザ「エルムの森」でパソコンを操作していたら、顔見知りの吉田文和先生に出会う。パノラマ写真風土記のインタビューを申し込むと、明日からの海外出張があるから、ということで日を改めての取材となる。
長いこと北大に勤めていて、経済学部の教官棟に足を踏み入れたのはこの取材時が初めてである。メインストリーから見ると非常階段がむき出しで見える建屋の5階の南側に先生の部屋がある。部屋に入ると本や書類の山で、人ひとりが歩ける通路がドアから机のところまで続いている。段ボールの箱も重なっている。ここでパノラマ写真を撮るのはかなり難しいと思いながらの撮影である。
この部屋の状況は先生の定年退職にも関係している。1950年生まれで、この3月(2014年)北大での35年間の教員生活の区切りをつけ退職する。その後1年間は北大の特任教授を続け、この状況下で本や資料の整理の最中だそうである。本や資料は懇意にしている下川町の町長とのつながりで、同町に寄贈し、文庫を作る計画が進んでいる。
先生の専門分野は環境経済学である。この分野に進んだのは、東京都立大学卒業後進学した京大大学院経済学研究科が大学紛争で閉鎖状況にあった時、同大工学部の金属工学科に身を置いて、鉱物や鉱山に関する研究に接したことによるそうである。
京大博士課程を単位取得退学後北大に勤務され、道内の炭鉱や鉱山で経済学の研究者として坑内に入って知見を広めている。研究の性格が学際的であるため、北大では工学部の鉱山関係の研究室、農学部、医学部と研究のための連携相手を広く求めることができ、総合大学の利点を生かして研究できたことがよかったと述懐されていた。
今後の研究方向を聞いてみると、まず再生可能エネルギーと地域経済活性化で、これが先生の第一番の研究テーマであるようだ。これまでの研究の集大成の「Lecture on Environmental Economics」の論文集を頂く。本のカバー表紙の写真は先生撮影のもので、表は幌延町の風力発電の風車、裏はコペンハーゲンの洋上風車である。写真が趣味の奥さんに付き合って写真を撮ることが多いそうである。
環境問題は今や原発問題を避けて通ることができない。3.11の福島原発事故発生当日はベルリンに滞在中だったそうである。事故後、英語で著した「FUKUSHIMA A Political Economic Analysis of a Nuclear Disaster」を共著で出版されている。
脱原発に向けて、日独のエネルギー政策の比較研究を続けてきている。ドイツで実現している脱原発が、現時点では原発がなくてもやっていけると日本国民が知ってしまっていても、どうして日本では脱原発を続けていけないのか、研究者の立場で検証を続けていこうとしている。
環境問題は公害の問題でもある。近代日本史でもいくつか大きな公害問題が発生している。そのところを環境経済学の研究者の立場から掘り下げてみたいという抱負も語られる。丁度先生の部屋からは北大古河記念講堂の屋根が見下ろせる。この建物は足尾銅山鉱毒事件を引き起こした古河財閥が、贖罪の意味を込めて全国の国立大学に寄付を行い、その資金で建てられた建物である。今は北大の景観の象徴となっている建物を隣に見ながら、吉田先生が環境経済学の研究を続けてきたのは何か因縁めいたものを感じる。
(研究室での吉田先生 2014・3・17)
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