札幌のIT産業史にサクセス・ストリーを刻んだ「ビー・ユー・ジー」社が札幌テクノパークに社屋を新築したのが1988年である。社長として同社を牽引したのが服部裕之氏で、30歳を超えてそこそこであった。
この社屋に彫刻家イサム・ノグチ作の「オンファロス(omphalos)」の蹲(つくばい)が置かれ、常時水が流れていた。ここに世界的巨匠の作品があることに関しては一つの物語がある。服部氏は、社屋新築に関わった設計会社のパーティで知り合ったイサム・ノグチ氏と札幌市の間を仲介し、これが札幌市東区のごみ処分場利用したイサム・ノグチ設計のモエレ沼公園の誕生につながった。その過程で、巨匠が服部氏に蹲を贈り、これを新社屋の中心に設置した。
元々オンファロスとはアポロの神殿にある世界の中心を表す象徴的なモニュメントである。そこから採られた作品名は、札幌が情報産業で日本の中心、否世界の中心になる願いが込められている。テクノパークの開発やそこに地元IT企業が集積していったこの時期、札幌は全国から情報産業勃興の地として注目を集め、オンファロスの名前を名実ともに具現化する勢いがあった。
筆者は当時北海道新聞のコラム「魚眼図」の執筆陣に加わっており、1989年1月21日の夕刊に「オンファロス」と題した一文を寄稿している。この原稿は後に出版した「魚眼で覗いた微電脳(マイクロコンピュータ)世界」(共同文化社、1999年)にも採録している。
イサム・ノグチ氏は1988年12月30日ニューヨークの病院で亡くなっており、基本設計を行ったモエレ沼公園の完成を目にすることはなかった。その後バブル崩壊やベンチャー企業育成を支援してきた北海道拓殖銀行の破綻で、札幌のIT企業は困難な道を歩むことになる。ビー・ユー・ジーも2013年には「ビー・ユー・ジー森精機」と社名が変わり、本州資本の子会社に変わった。創業した服部氏らは別の会社を興し、元の会社の経営からは退いた。
服部氏所有だったオンファロスがモエレ沼公園の中核施設の「ガラスのピラのミッド」に寄贈されるとの新聞記事を目にして、寄贈序幕式に出かけてパノラマ写真を撮った。除幕前の撮影であったため、オンファロスには白布がかけられていた。蹲が置かれた場所は丁度ガラス張りのピラミッドの頂点の真下だそうである。オンファロスは名前の通り場所を得て収まった感じである。
パノラマ写真に座って写っているのは桂信雄前札幌市長で、服部氏がイサム・ノグチと札幌市の仲介を行った時に市長であった。桂氏は札幌の情報産業育成に理解を示され、サッポロバレーと称された札幌情報産業の展開に対応した行政側の布陣を敷かれた。
準備中の司会者として写っているのは林美香子氏で、北大農学部卒業後、札幌テレビ放送のアナウンサー・キャスターからフリーランスとして活動、2012年からは北大農学研究院の客員教授として就任されている。
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