構内のクラーク像といえば中央ローンにある胸像が一番良く知られている。しかし、他にも学内にはクラーク像がある。『札幌の秘境』(北海道新聞 2009)に「北大のクラーク像はいくつあるか」のテーマで書いたことがある。クラーク像は5体ほどあり、その一つは本部の大会議室にある。戦時中に撤去された田嶼碩郎の初代のクラーク像を、戦後加藤顕清が模して制作したものが中央ローンの像である。会議室の石膏像は加藤顕清制作で夫人から寄贈されたものである。(2013.12.26)
像共に 大志の教え 残りたり
構内のクラーク像といえば中央ローンにある胸像が一番良く知られている。しかし、他にも学内にはクラーク像がある。『札幌の秘境』(北海道新聞 2009)に「北大のクラーク像はいくつあるか」のテーマで書いたことがある。クラーク像は5体ほどあり、その一つは本部の大会議室にある。戦時中に撤去された田嶼碩郎の初代のクラーク像を、戦後加藤顕清が模して制作したものが中央ローンの像である。会議室の石膏像は加藤顕清制作で夫人から寄贈されたものである。(2013.12.26)
像共に 大志の教え 残りたり
大通西21丁目に中国画廊の看板の出ている3階建ての建物がある。昔中国総領事館が札幌に開設された時、建物のオーナーが申し出て、中国総領事館がここに間借りしたことを知る人はほとんど居ないのではなかろうか。
建物のオーナーは東京宅地㈱の國岡氏で、会長の茂夫氏と息子の睦史氏がこの会社を経営している。札幌にあるのに何で会社名に「東京宅地」がついているのか、聞いたような気もするけれどすっかり忘れている。総領事館が建物を建て移った後に「中国画廊」が開設された。
画廊は中国人アーティストの作品を展示し、販売も行っている。これからの中国人アーティストを世に出すお手伝い、という性格の画廊である。講座「身近な都市秘境を歩いてみよう」の講座でも受講生と共に訪れたことがある。館長の國岡睦史氏が対応してくれた。文字通り都市の秘境の画廊という感じがする。
この画廊には別件でお世話になったことがある。筆者は中国長春市でスケッチ展を開催したことがあり、共催した中国人画家馮長収氏が来札するのに力を貸した。大作の中国絵を運んできた馮氏と今度は札幌で二人展を行ったのだが、販売を目的とした馮氏の絵は売れなかった。そこで帰国するのに際して、大きな絵を1枚中国総領事館に寄贈することになり、その仲介を國岡睦史氏にお願いした。絵は無事総領事館に収まったけれど、その絵のその後の顛末については知らない。
國岡睦史氏に画廊の絵をバックにして立ってもらいパノラマ写真を撮る。聞いてみると氏は玉川大学の通信教育で博物館学芸員の資格を取得されている。私設の小さな博物館や美術館で学芸員が居るのは珍しい。
今年(2013年)に88歳になられる茂夫氏は、「日中佛教文化交流中心」に関係しておられ、任意団体の平等院大慈寺を組織して写経活動を行っている。寺の名前はあっても宗教法人ではなく、出家僧も居ない。在家の有志がやっている擬似寺である。宗教法人になって生活(経営か)が安定すると宗教は堕落する、という氏の言葉が耳に残った。
(画廊に立つ國岡睦史氏)
IT企業の社長という点では、鳴海鼓大(たかひろ)氏の経歴は少し変わっている。富山商船高等専門学校航海学科卒業後20~21歳に船に乗って国内、海外を巡る船上生活を送っている。海が好きだったようで、後年設立した会社の社屋の壁や応接室の壁に人魚や魚の絵が描かれている。
航海生活から陸に上がって電力会社やソフトウェア会社に勤務する。会社勤めに満足せず、コンピュータ専門学校に通い、1991年にシステム・ケイを設立している。会社名にある「ケイ」は「K点」の意味である。スキージャンプ競技でK点を超えることが競技者の目標で、IT企業でもこの業界で評価を受けるK点超えを目指す、という意気込みが社名に表れている。
かつてeシルクロード親善大使をお願いしていて、時たま勉強会で講義してもらうことがあった。講義で、ビジネス展開での自分の強みは、言葉が通じない外国人の誰とでも友達になれる点だ、との話が記憶に残っている。中国、台湾その他の海外でパートナーを得てビジネスを展開してきている。
本業とは関係のなさそうな事にも手を出している。一時、液体の燻製というのをやっていたことがある。飲み物や液体調味料を燻製処理すると旨みが増す。そのための燻製装置を開発して、大学に燻製液体を持ち込んでテストしてもらう、といった話を記憶に留めている。
現在のメインの事業はインターネットカメラである。動画配信や監視を小型のカメラとインターネットを利用して行うシステム開発やサービスを行っている。ロボット型ヘリにも着目していて、インターネットカメラと組み合わせると、上空からの動画を取り込んで各種のビジネスに生かすことができる。
会社の応接室(社長室兼用か)でパノラマ写真撮影である。各種の表彰状と一緒になって、オードリー・ヘップバーンの写真が目に付き、鳴海氏は彼女のファンのようである。入口近くの壁に貼ってあるeシルクロード親善大使の顔写真入りのパンフレットは、制作したことがあるのですぐにわかった。Biz-Caféのカレンダーもあり、この組織の資金作りに協力している。
北海道新聞夕刊(2013年12月7日)に鳴海氏の提言が掲載されていたのが目に留まる。ホワイトハッカーを札幌に結集して、「サイバー攻撃と戦う街に」しようとのアイディアは、実現性はともかく、面白いものであった。新聞の紙面と鳴海氏のパノラマ写真を重ねてみる。
(新聞の提言記事とシステム・ケイ社応接室での鳴海鼓大氏)
NHKの番組「つながる@北カフェ」のコーナー番組「札幌ハコモノ探検」のコメンテータを務めていたことがあった。番組の何回か目に札幌円山動物園が探検先となり、「は虫類・両生類館」を取材した。この時取材に応じてくれたのが飼育員の本田直也氏である。
本田氏の受け持ちは爬虫類・両生類と猛禽類のフリーフライトである。特に爬虫類ではヨウスコウワニの繁殖に国内で初めて成功しており、動物園の発展に寄与した人に与えられる「高崎賞」を受賞している。ヤドクガエルのような珍しいカエルの繁殖なども手がけており、カリスマ飼育員とも呼ばれ、円山動物園の“人類”の顔である。
一般的に爬虫類の好きな人は数が少なく、大方の人にとって蛇などは触れたくない存在である。しかし、本田氏は爬虫類が子供の頃から好きだったという。爬虫類館の中央にバックヤードがあって、来館者が外からこのバックヤードを覗き込める設計になっている。このバックヤードで毎日餌を作るのが本田氏の仕事であるけれど、そこで平気で蛇に触れている。
動物園の秘境はこのバックヤードにある。蛇とかカエル、その他の生き物には生餌を与える必要がある。バックヤードの地下の階には餌さ用の大量のラットやコオロギが飼われている。動物園は小動物や虫の命で維持されている側面があり、ただ動物を眺めている時には気がつかない。それにしても、生餌の管理にも年中気を配らねばならない飼育員は、好きでなければ出来ない仕事であると思った。
鷹匠の本田氏が鷹を飛ばせるところを見たかったのだが、冬場に北極熊のお産のため園内の環境を静かにせねばならず、鷹を飛ばす場所の除雪をブルトーザーで行うことができず中止しているとのことである。一度鷹匠の腕前を見てみたかった。
(は虫類・両生類館バックヤードで仕事中の本田直也氏)
アイワードは印刷会社で、各種印刷を手がけていて、当然本作りも行っている。本作りといっても多様な作業があり、データの入力から編集・校正、印刷・製本を行って本が出来上がる。印刷・製本に着目すると、大型の印刷機や製本機を揃えて仕事をしてゆくので、装置産業ともいえる。しかし、データ入力やデザインは人手に頼るので、労働集約産業でもある。
いずれにせよ、今や印刷業ではコンピュータ利用が不可欠である。しかし、以前の印刷業は、印刷機を相手に職人の技で仕事をしていた。印刷業のコンピュータ化はパソコンが広く普及してきてからである。そのパソコンの前段階のマイコンと呼ばれた技術が急速に広まり出した頃、会社名を「共同印刷」と名乗っていた同社に、筆者の手作りマイコン装置を持ち込んで社員に講義したことがある。
今や印刷業はデータ入力と処理が仕事の根幹にあり、狭義の意味の印刷は最終工程のものでしかない。豆本「爪句集シリーズ」の印刷を頼んでいることもあって、時々顔を出す同社で木野口功社長にパノラマ写真撮影を申し込んだ。永山記念公園の近くに同社の社屋のビルがあり、ビルの地階にあるデータ入力作業室での写真撮影となる。木野口社長の周囲では、お揃いの制服姿で、全員パソコンを前にして、受け持ちの原稿の入力と手直し作業を行っている。
ここで仕上がった原稿は石狩市にある同社の大きな印刷工場に送られ、印刷物となる。同工場にはドイツのハイデルベルグ社から導入した高速、高品質のカラー印刷機があり、これで印刷される原稿も多い。この高価な印刷機械導入は、競争の激しい印刷業界にあって、高品質印刷に特化して企業の生き残りを謀るための木野口社長の経営戦略の要である。
北海道新聞社刊の「トップの決断 北の経営者たち」(2012年)に北海道を代表する経営者の一人として取り上げられ、優れた経営者としての評価も定まってきている木野口氏である。そして、次に控える課題は後継者へのバトンタッチであろう。技術革新の激しいこの業界にあって、次代を担う経営者を育てるのは、当初業績が芳しくなかった同社に外部から入って、現在の会社までした木野口氏が経験した事とは別の難しさがあるように思える。
銀行内では原則カメラはご法度である。北海道銀行のカウンターの奥の方に北海道を代表する作家の共同制作によるレリーフがあるけれど、これをカメラに収めるのは条件付きの許可を取る必要がある。許可を得てこのレリーフのパノラマ写真を撮ったことがあるけれど、多分このレリーフのパノラマ写真撮影を敢行したのは、自称パノラマ写真家としての筆者しかいないのではなかろうか、と思っている。
日本銀行は都市銀行よりさらに厳しい感じを受ける。ホテルの朝食会で知り合った日本銀行札幌支店長の曽我野秀彦氏に、支店内での氏のパノラマ写真撮影を申し込んだら、意外に簡単に承諾してくれる。最初は銀行内の様子が伝わってくるような場所を考えていただいたようだけれど、やはりそれは無理で、一般市民が出入り出来る展示室での撮影となる。
この部屋は、以前道新文化センターの講座「身近な都市秘境を歩いてみよう」の受講者を連れて訪れたことがあるので、知っている場所である。展示物の内容は以前のものとほとんど変わっていない。この部屋で曽我野氏に立ってもらい撮影である。1万円札を大きくして、福沢諭吉の顔の部分に自分を顔を出して記念撮影を行う看板に、曽我野氏も顔を出してサービスに応じてくれる。
写真撮影後の短時間の雑談で、曽我野氏は札幌支店長就任から1年経過したのを知る。北海道新聞の「けいざい寒風・温風」のコラムの執筆者で、つい先ごろの回では全国的にみて北海道の経済は好調と書いておられた。今回の景気回復のキーワードは「建設」、「消費」、「観光」で、北海道は三拍子そろった地方になるそうである。
しかし、喜んでばかりもいられない。現在銀行は収益につながる投資先が少なく、余った資金で国債を買っている状況で、銀行は預金されても困るのではないかとの質問に、近い将来地方の銀行は預金集めに苦労する時代を迎える話をされた。遺産相続をする子供たちが大都会に住むようになり、高齢者の資産(お金)が大都会に移ってしまう。少子化は地方で顕著で、その点からも貯金に回るお金は見込めない。
人気テレビ番組「半沢直樹」はどこまでリアリティがあるのか、といった筆者の質問に関する話もあったけれど、空き時間を利用しての撮影で、ほんの立ち話(座ってはいたけれど)程度であった。曽我野氏は来年(2014年)4月からは北大でも講義を持たれるとのことで、北大生に面白い話をされるのだろうと思った。
メディア・マジック社はエヴァンゲリオンのキャラクターのライセンスを受けて、ケータイに利用するサービスで知られた会社である。最近はエヴァンゲリオン展を札幌で行って人気を博している。同社の里見英樹社長には「eシルクロード親善大使」をお願いしていることもあって、勉強会「eシルクロード大学」で何回か講義していただいた。
その講義で知ることになったのだが、氏はアマチュア無線が趣味で、アマチュア無線で培った知識を、本職のパソコンのソフト作りに応用した頃があった。ここまでなら技術系ではあり得る話である。しかし、聞くことが稀の話として、氏にはマダガスカルでアマチュア無線を広めた最初の外国人の経歴がある。
マダガスカルは、ここでしか見られない珍しい動物を観察できる自然の残る国である。写真も趣味の里見氏は、これらの動物の写真を撮りにマダガスカルに渡航した。ちなみに氏の写真の趣味は、筆者の著作「札幌の秘境100選」(マップショップ、2006)に採用した旭山公園から撮影した札幌の夜景や、豊平川の「おいらん渕」の魚眼レンズを使った写真に結実している。
マダガスカルに通うことが増え、マダガスカル通となった里見氏から同国を旅行するお誘いを受ける。バオバブの大樹のパノラマ写真が撮れる良いチャンスと、マダガスカル行きを決め航空券も入手した。出発直前に里見氏からの電話で、日本への戻りの飛行機がキャンセルになった事を告げられる。バンコク経由でマダガスカルの首都アンタナナリボ行きの予定であったので、急遽バンコクまで行きタイ見物に切り替える。
里見氏の会社の社員旅行にはバンコクが選ばれたこともあるほど、氏はバンコクにも詳しい。バンコクの観光名所を一緒に見て歩き、パノラマ撮影三昧となる。暁の寺の「ワット・アルン」の高い仏塔の上からのパノラマ撮影には肝を冷やした。「ワット・ポー」の金無垢の巨大涅槃物を観光客に遮られながらのパノラマ撮影も行った。タイ王室の寺の「ワット・プラケオ」のパノラマ写真には、里見氏とマダガスカルに行き損ねた娘さんが並んで写っている。
里見氏はバンコクでお隣の国カンボジアのアンコール・ワット旅行の手配を済ませる。タブレットを片手に、旅行先で次の旅行スケジュールを立ててゆく氏を見ていると、旅行代理店もやってゆけるのではないかと思われた。初めてのアンコール・ワットでも多くの遺跡のパノラマ写真を撮ることが出来、マダガスカルは遥か彼方であったけれど、収穫の多い旅行であった。
2ヶ月後には、里見氏と今度は中国四川省成都市を旅行することになる。この時は氏の息子さんが勤め先の大連市から成都市までやって来ている。
(ワット・プラケオで娘さんと一緒の里見英樹氏)
TEDxSapporoという、2013年に札幌で行われた日本語版TEDのプレゼンテーション・ショウで山本先生が説いていたのは「守・破・離」である。これは元々芸事や禅の教えにあるもので、「守」は従来からの形や教えを受け入れること、受け入れたものに工夫を加えて「破」っていくこと、そして教えられたことや自分の工夫からも「離」れて、新しいものを創りだしていくこと、といった意味がある。
山本先生は電子工学や情報工学の技術者としての才能を発揮し、大学院生だった1970年代半ば頃からマイクロコンピュータ(マイコン)の技術を自家薬籠中の物として、研究に応用し周囲にこの新しい技術の移転を行っていた。修士を修了して一度企業に就職後大学に戻り、超音波ホログラフィーのテーマで博士号を取得している。その研究にマイコン技術が生かされている。
山本先生の研究をトレースすると「離・破・守」かも知れない。新しく世に現れたマイコンというコンピュータ技術を身につけるやり方は、従来の大型コンピュータの世界から「離」れていて、独学の世界である。そこで身につけた技術や知見で、従来のコンピュータ技術の枠を「破」って新しい応用の展開を試みている。
マイコンからはCGの研究に移行し、日本では先駆的な研究者の一人でもある。CGの研究でも、最初は師に付いた訳でもなく従来の研究から「離」れて、試行錯誤でこの分野の研究常識の壁を「破」って来た。今や情報工学の応用分野での権威になっていて、「守」りに入った感がしないでもない。
山本先生や後輩の学生達がマイコン技術を核としてベンチャー企業を興し、後年「サッポロバレー」と全国に喧伝された、札幌や北海道の情報産業育成に貢献したことで筆者は2013年に北海道功労賞を受賞した。その記念誌発行にあたり、筆者の功績を紹介する長文の原稿は山本先生にお願いした。山本先生は、今や札幌という地方都市のIT産業史として定まってきている、マイコン産業勃興当時を顧みて執筆できる数少ない書き手の一人である。
執筆のお礼も兼ねて、山本先生を教授室に訪ねる。一昨年まで北大情報基盤センター長を、昨年からは産学連携本部副本部長を兼任していてかなり忙しそうである。短時間雑談で、電話のかかって来たのを潮にパノラマ写真を撮る。秘書の方も写り、色々なものが詰まった部屋の全部が写るパノラマ写真では、山本先生からクレームが届きそうである。クレームがあれば、もう少し舞台装置を整えたところでのパノラマ写真に差し替えるつもりである。
福本工業社長の福本義隆氏が文章入力で“りゅうさん”とパソコンに打ち込むと「劉さん」か「硫酸」かのどちらかが変換の第一候補と第二候補で出てくるとのことである。この二つの単語はまったく無関係と思われるけれど、福本氏の頭の中ではつながっている。
「劉さん」とは中国人劉連仁さんのことで、中国山東省から1944年に日本に強制連行され、沼田町にあった明治工業昭和鉱業所で働かされた。終戦間際の1945年7月にここを脱出し、1958年2月に発見されるまで足掛け14年間を北海道の野山で生きながらえた人物である。雪で埋まる期間は地中に穴を掘り、そこでじっと座ったままで冬を越したというから奇跡に近い逃亡生存者であった。
一方、福本氏は今やブームの感がある節電に挑戦している。太陽電池のパネルを自宅に取り付け、これから供給される電力だけで生活ができるかどうかを、身をもって試している。節電の最も効果的方法は電力を消費する生活と縁を切ればよい。冬は暗い穴倉のようなところで生活すれば電気はいらない。しかし、これでは精神が持たないだろう。
という状況で、福本氏は劉さんの歴史的事実を知ることになる。自分とは比べものにならない無電気生活で北海道の冬を生き延びた先達が居る。これを考えれば、乏しい電気の生活は大した苦でもない。ここは一つ劉さんが働かされていた炭鉱のあった沼田町に行って、何か過去を振り返る資料でも探し、昭和鉱業所の跡でも訪ねてみよう。そして、それを省電力耐乏生活の精神的拠りどころしよう、と沼田町町役場まで劉さんの記録を求めて行く。
沼田町役場で対応してくれたのは、町興しに熱心な町職員の亀谷良宏氏である。しかし、この負の遺産を調べ直すのは町としては乗り気ではなさそうである。それでも保管されている劉さん関係の新聞資料や昭和鉱業所の過去の写真などを見せてくれる。
亀谷氏は昭和鉱業所の跡に続く林道まで案内してくれたけれど、林道は閉鎖されていて、鉱業所の廃屋の写真を撮ることはできなかった。なお、この沼田町行きはイベント仕掛け人林克弘氏が沼田町に鉄道イベントの提案を行う目的もあって、林氏の車で行った。
話しは戻り、福本氏の太陽光発電だけで一応最低限の文化的生活を行うには、大容量の蓄電池が必要との結論に達した。市販で手に入る蓄電池は停電に対処して大電流を放電するのもであって、少量の電流を長時間流す電池には不向きである。それも、夏季に蓄電して冬季に使うなどといった長期間にわたって働かせる目的のための蓄電池が必要だ、と福本氏は自作の電池開発に乗り出す。鉛電極を希硫酸につける鉛電池の原理から始まって、大容量鉛電池の自作と実験である。ここで登場する単語が「硫酸」なのである。この電池はまだ実験段階で所期の目的にはほど遠い。
「劉さん」と「硫酸」は福本氏の頭の中では化学反応を起こしている。しかし、その化学反応はエコ生活、節電生活、老後の生きがい、といった触媒が作用したものである。今は手を引いているみたいであるけれど、福本氏はパノラマ写真に凝った時期がある。その衣鉢を受け継いだのが筆者である。
(沼田町町役場会議室で左から福本氏、林氏、亀谷氏)