HPFhito47・NORTH創立20周年記念シンポジウムでの辰巳治之先生と久保洋先生

 NPO北海道地域ネットワーク協議会(NORTH)が創立20周年を迎えるということで、記念のシンポジウムが2月(2014年)の中旬に北大学術交流会館で開かれた。同会会長の札幌医大教授辰巳治之先生から記念特別講演を頼まれ、「北海道パノラマ写真風土記プロジェクト」と題した講演を行った。
 以前筆者は北海道コンピュータグラフィックス協会を立ち上げ、1987年に「札幌国際コンピュータグラフィックスシンポジウム」の第1回目を開催した。これは前年に創設された(財)札幌エレクトロニクスセンターの1周年記念行事の一環でもあった。このシンポジウムはその後毎年1回で8回行われ、1995年には「インターメディアシンポジウム」と名前を変えている。国際CGシンポジウムの2回目には辰巳先生も大阪から参加で、この時の先生の所属は阪大医学部となっている。
 同シンポジウムの4回目では辰巳先生の所属は札幌医科大学と記されていて、先生は前年(1989年)には札医大に移られている。医学部での専門分野は解剖学と聞いているけれど、情報やネットワークの分野で活躍されているのが前面に見えてきて、医学部の先生という感じがしない。それでも「情報薬」といった話では、情報通信技術を積極的に用いて患者の治療に当たろうとしていて、本業は医学である点を確認させてくれる。
 今回のシンポジウムは、辰巳先生の医学やネットワーク関連分野の人脈を動員して行われている。種々の団体にも関与していて、「札幌シニアネットワーク」の顧問として同団体を支援している。同団体は会員が600人ほど居て、常時何かの活動が行われているそうである。超高齢化社会に薬効のある「情報薬」の治験とも考えられる。
 講演会前に学術交流会館ホールで辰巳先生のパノラマ写真を撮る。丁度室蘭工大名誉教授の久保洋先生が受付のところに現れたので久保先生にもパノラマ写真に入ってもらう。久保先生は1967年北大工学部精密工学科を卒業していて、筆者は学年では3年上になる。電子工学科と精密工学科は当時新しくできた学科で、事務が共通であった。久保先生とは当時顔を合わせていたことになるけれど、この点に話が及んでもこれといった具体的な記憶がない。
 久保先生とは1985年に北海道拓殖銀行が主催した「米国先端産業集積地域調査団」に団員としてご一緒した。この時の久保先生の所属は室蘭工大産業機械工学科教授である。当時の久保先生の研究テーマがどんなものであったかは知らないが、室工大を定年退職される頃は情報工学科所属で「感性工学」が研究テーマであった。
 室工大退職後は感性工学の研究成果を企業化しようと合同企業「ノースラボ」を立ち上げておられる。同社の商品として化粧水やクリームが並んでいて、感性工学とはこんな範囲にも及ぶものかと意外な感じがした。久保先生は70歳を超えても、研究成果を企業化する熱意は消えていないようである。


HPFhito47%E3%83%BB%E8%BE%B0%E5%B7%B3%E6%B2%BB%E4%B9%8B%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%A8%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%B4%8B%E5%85%88%E7%94%9FA.jpg

(左端:久保洋先生、右隣:辰巳治之先生)

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito46・経済界社長佐藤有美氏と江戸しぐさ伝承者山内あやり氏

 「経済界」という雑誌がある。以前、何度かこの雑誌の取材を受けたことがある。特集のグラビアページにまで取り上げられたのは2001年6月12日号で、特集は「土壇場で見せるか、開拓者精神-「札幌」どん底からの出発」である。プロのカメラマンがやってきて、教授室や講義中の教室、テクノパーク、Bizカフェ、はてまた自宅庭で畑起こしをしている写真まで撮られ、同誌に載った。
 多分、記事が出てから後だと思うけれど、同誌を発行している「経済界」の社長だった故佐藤正忠氏が札幌に来られ、ホテルでの朝食に誘われた。ホテルのレストランでの朝食かと思っていたら、スイートルームでルームサービスの朝食でびっくりしたことがある。書道家の氏は、ホテルでも書の作品制作中でもあり、食事中に書の個展の話になったのをぼんやり覚えている。
 正忠氏は2013年に85歳で逝去されている。それ以前の2001年に同社の社長は長女の有美氏にバトンタッチされていて、有美氏の社長業は、12年間続いている。有美氏は秋田で幼少時代を過ごし、東京で仕事をした後、現在の会社に勤めて20年間が過ぎている。
 今回「経済界」主催の講演会があり、有美氏はそれに合わせて来札である。講演会の講師は、江戸しぐさ伝承者でラジオパーソナリティの山内あやり氏である。講演の方は「いき」と「やぼ」の対立する言葉を取り上げ、西(関西)の「粋」、東(江戸)の「いき」、商売で「野暮」と言われたら「いき(生)」が無い等のイントロダクションから始まる。現代のビジネスに通じる江戸の「思草(しぐさ)」についての解説が続く。道産子には江戸は遠いけれど、日本人の共通のベースでの話であるので、社会生活を送り仕事をする上でもっともな知恵と教えは、具体例でも納得する。
 懇親会の時、これはよいチャンスと有美氏と山内氏に並んでもらい、パノラマ写真を撮る。撮影後有美氏と少し雑談である。有美氏の趣味はゴルフと似顔絵描きである。モデルと描いた似顔絵を並べた写真をケータイで見せていただいたが、絵心があり上手なものである。筆者もスケッチを基に画文集を出しているけれど、1枚のスケッチに1時間以上はかかるので、5分で描ける有美氏の技には驚く。
 山内氏は著書「江戸しぐさに学ぶおつきあい術」を幻冬舎から出版していて、講演会場で販売である。懇親会が著書のサイン会のようになって、著作とサインを求めた講演参加者との話に忙しい様子なので、名刺交換程度で終わる。インターネット情報では山内氏は静岡県出身で、鶴見大学文学部日本文学科卒業、「江戸しぐさ語り部の会」主宰者の越川禮子氏に師事し、NPO法人江戸しぐさ理事である。それにしても「あやり」とは変わった名前である。


HPFhito46%E3%83%BB%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%9C%89%E7%BE%8E%E6%B0%8F%EF%BC%88%E5%B7%A6%EF%BC%89%E3%81%A8%E5%B1%B1%E5%86%85%E3%81%82%E3%82%84%E3%82%8A%E6%B0%8F%EF%BC%88%E5%8F%B3%EF%BC%89A.jpg

(佐藤有美氏(左)と山内あやり氏(右)、画面をクリックでパノラマ写真)

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito45・董事長室の「成都華日通訊技術有限公司」社長莫景猷氏

 十年前の2004年に成都市を訪れている。最初に成都市を訪れたのはさらにその十年前の1994年で、この時は楽山大仏を見て描いたスケッチが残っている。2004年の訪問時に初めて「成都華日通訊技術有限公司」を訪れ、董事長(社長)の莫景猷(Mo Jing You)氏にお会いしている。莫氏は当時研究室の博士課程に在籍していた莫舸舸君の父親である。
 昨年(2013年)成都旅行時に上記会社を訪れ、莫景猷氏の董事長室でパノラマ写真を撮る。莫氏はお元気で、息子夫婦の通訳で札幌からの訪問グループと四方山話となる。会社の仕事は息子夫婦にバトンタッチが行われたようで、大人数となったグループ企業を大所高所から見守る立場にあるようだ。
 莫氏は、元は人民解放軍に籍を置く研究者であった。筆者が立ち上げた「札幌-瀋陽計算機応用国際学術会議」の第2回目は1986年に札幌で行われた。その論文集に莫氏の論文が収録されている。莫氏は札幌まで来ることはできなかったけれど、20年後には息子が北大情報科学研究科で研究生活を送っている。
 第二の経済大国まで成長した中国では多くの成功した企業人を輩出している。莫氏のその中の一人である。氏の夫人の楊治敏さんも又企業家である。楊さんは日本留学の経験があり、日本語に通じている関係で、成都市で一時期筆者が展開したパンダ支援プロジェクトでもお世話になっている。
 莫氏のオフィスで撮ったパノラマ写真を回転して見ると馬の置物がある。莫氏の生まれは午(馬)年で、巳年生まれの筆者が1年先輩に当たる。莫氏の論文の載った論文集を持ち出してきて、論文のページとパノラマ写真を重ねて撮ってみる。莫氏と出会ってからの20年の歳月の流れが、瞬時であったような気もしている。


HPFhito45%E3%83%BB%E8%8E%AB%E6%99%AF%E7%8C%B7%E6%B0%8F%E8%AB%96%E6%96%87%E3%81%A8%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%A9%E3%83%9E%E5%86%99%E7%9C%9FA.jpg

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito44・第一級の眺望を見て仕事をする三井物産北海道支社長角田道彦氏

 角田道彦氏の支社長室に通された時の強烈な第一印象はその眺めの良さであった。角田氏が勤める三井物産北海道支社は日本生命ビルの11Fにある。支社長室はこのビルの北西の角にあり、西側の窓の下には北海道庁、さらに視線を上げると手稲山から三角山、藻岩山と札幌の都心部から眺められる山並みが続く。北側の窓からは近くにあるJRタワーが目に飛び込んでくる。2年前に、シンガポールから札幌に転勤になった時、オフィスから眺められるこの景観を見て社員が英気を養うようにと、オフィスの西側のブラインドは1日に1度は全部上げるように支社長命を出したというのは頷ける。
 暑いシンガポールから雪の舞う札幌への転勤は寒さが堪えるのでは、と尋ねると、雪は好きだとの答えが返ってくる。幼稚園の頃札幌に住んでいた経験があり、横浜国大時代にスキー部で長野辺りに行っていたので、近場にスキー場のある札幌は恰好の勤務地のようである。因みに出身地を聞くと、新聞社に勤めていた父親の転勤で全国各地を動いたので、出身地と聞かれると答えに困るとのことである。強いていえば、最も年月が長かった東京かな、とのことである。
 主な仕事はプラント関係で、海外勤務も多く、カナダ、台湾、マレーシア、シンガポールの支社で働いた経験の持ち主である。カナダのバンクーバー市の駐在の話では、筆者もケベック市のラバル大学に留学していたことがあるので、向こうの生活の感じはつかめる。部屋の壁にはサハリン全図が張ってあり、聞いてみると同社はサハリンの液化天然ガス(LNG)の開発と輸入を行っていて、そのパイプラインが地図に書き込まれている。
 同社は百年先のことを考え、北海道に森を育てているのは初めて聞く話である。森を育てることは林道の整備も同社が行うことになる。商社の扱うものに木材はあるだろうけれど、国産材を今すぐ商売の対象にする、といった話ではない。大きな会社になると、長期の視点で、国土保全といった点からのプロジェクトにも関係するようだ。
 文化面でもそのような試みが行われているようである。部屋の壁にはアイヌ・コタンの写真がある。その写真はある仕掛けの合成写真なのだが、プロジェクトは水面下で検討中であり、社内で正式に承認されていないとのことなのでここに書く訳にはゆかない。しかし、技術者としての筆者の目から見て、そんなことが可能なのだろうか、と思ってしまう。もし、それが実現されるなら、アイヌの象徴空間創造に大いにインパクトのあるプロジェクトだと思った。
 蛇足ながら「角田」は「つのだ」、「かどた」、「すみた」と発音でき、本人を目の前にしてどの発音だったと迷う。実際会話中に間違った発音をしてしまったが、それは度々起こることなのだろな、と思った。


HPFhito44%E3%83%BB%E8%A7%92%E7%94%B0%E9%81%93%E5%BD%A6%E6%B0%8FA.jpg

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito43・多くの表彰状に囲まれた光合金製作所会長井上一郎氏

 光合金製作所会長の井上一郎氏は1934年生まれで、この2月には80歳になられる。小樽港町の波止場に隣接する同社本社を取材で訪れた時も相変わらずお元気であった。昨年(2013年)11月、筆者の北海道功労賞受賞祝賀会に井上氏に乾杯の発声をお願いしていて、井上氏も2009年に同賞を受賞しておられる。
 同社は不凍給水栓を製造販売しており、観光地小樽運河からも近い本社は管理・営業部門だけで、工場は小樽市朝里にある。以前「小樽・石狩秘境100選」(共同文化社、2007)を出版した時、朝里工場の取材でお世話になったこともある。
 井上氏は室蘭工業大学を卒業後、小樽商大に籍を置き、その後北大衛生工学科の助手を5年間勤めて現在の会社に入社した。衛生工学科時代には水処理が研究テーマだったので、北大での研究が現在の不凍給水栓の製造に生かされている。
 同社は一郎氏の父親の良次氏が1947(昭和22)年に創業しており、一郎氏が2代目社長、一郎氏の息子の晃氏が3代目社長である。社名にある「光」は戦後の混乱期に「光明あれ」と創業したことによっている。
 木造2階建ての本社の応接室は表彰状で囲まれている。副賞の置物も所狭しとテーブルの上に並べられている。一番新しいものは昨年の「北海道新聞文化賞」で、これは井上氏が中心になって活動してきた「伊藤整文学賞の会」に与えられたものである。同賞で贈呈された安田侃氏の作品のブロンズの置物もテーブルの上にあった。
 井上氏とは随分長いお付き合いで、1985年北海道拓殖銀行が主催した「米国先端産業集積地調査団」の31名の団員に、井上氏も筆者も加わっている。1986年には札幌のIT産業の拠点として、サッポロテクノパーク内に札幌市エレクトロニクスセンターが開設されていて、後にサッポロバレーと呼称される札幌情報産業の黎明期に当たっている。
 筆者は2005年に北大を定年退職し、その後3年間札幌市エレクトロセンターのオフィスで仕事をした。その時ITと関係のない都市秘境探索を開始している。前記のように都市秘境を探して小樽まで取材に行った時、井上氏は小樽観光大使を務められていたかどうか定かではないが、現在は同大使を務めておられる。今回、井上氏から、氏が巻頭言を書かれた「小樽草子」の小冊子を手渡された。この小冊子から、井上氏が本業の傍ら、観光による小樽地域振興にも力を尽くされているのを読み取ることができた。


%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E5%BF%9C%E6%8E%A5%E5%AE%A4%E3%81%A7%E3%81%AE%E4%BA%95%E4%B8%8A%E4%B8%80%E9%83%8E%E6%B0%8FA.jpg

(父・良次氏の肖像画の横に立つ井上一郎氏)

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito42・JR札幌駅のエカシ像前に立つ鶴雅グループ社長大西雅之氏

 北海道観光の宿泊で評判の高い鶴雅グループを率いる大西雅之社長とは、何かの委員会で顔を合わせている。しかし、かなり以前のことでもあり、どんな会合であったのか記憶が定かでない。最近は北洋銀行会長横内龍三氏の主宰する「北海道シマフクロウの会」の設立総会で、たまたま大西氏の隣の席に座った。その席で、当方の北海道功労賞受賞の記念品として配るものに、北海道らしいもの、例えばシマフクロウに関した小物がないか、と相談している。
 大西氏のパノラマ写真を撮りたいものだと思っていても、氏の本拠地が阿寒町で、加えて出張も多そうで、これは無理かと思っていた。ところが、今年(2014年)の2月2日に、札幌大学副学長の本田優子先生が進めてきたアイヌの長老・エカシ全身の木彫像をJR札幌駅西コンコースに設置するお披露目のセレモニーがあった。大西氏は来賓の一人として出席されていて、北海道観光振興機構の副理事長として挨拶された。
 この機会に大西氏のパノラマ写真を撮ることを試みる。今回のセレモニーの主役の本田先生にも並んでもらって、パノラマ写真によるツーショットである。報道陣や見物人が取り巻くところでのパノラマ写真撮影は難しい。それでも撮影写真を張り合わせて、どうにか見られるパノラマ写真となる。大西氏と本田先生が並んだところのパノラマ写真は記念すべき一枚として残るだろう。
 ホテルは泊まることはあっても、経営に関する知識は皆無で、大西氏にホテル業に関連して問いかける質問は思いつかない。穏やかな人柄で、これはホテル業という性質上そうなのか、職業を離れてまったく個人的なことなのか、判然としない。ホテル業にITを取り入れ、多様化する客のニーズに対応させ、質の向上を目指すこと心掛けているとインターネットで氏のインタビューを読んだ。しかし、それに類する話をご本人の口から直に聞いたことはない。
 日本の人口減少時代に向かって、ホテル業界は地域間競争が激化する。客を呼び込む地域の魅力は何か。北海道が優位に立つ自然と食。文化はどうか。和人の文化は歴史が浅くても、アイヌ文化がある。これをもっと知ってもらい、民族の共生に生かしてゆくことが結果的に観光産業への寄与となって帰ってくる。この点でアイヌ文化研究家の本田先生と共有するものがあり、今回エカシ像を挟んでのパノラマ写真撮影につながっている。


HPFhito42%E3%83%BB%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B0%8F%E3%81%A8%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%85%88%E7%94%9FA.jpg

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito41・北一已駅の取材に同道のSTVテレビ・デレクターの成田清美さんとスタッフ

 STVテレビに「Do!アンビシャス」という番組があった(2013年3月で終了)。道内で活動しているユニークな人物に密着して取材して放送する番組である。1年前(2013年)番組の制作担当部門から打診され、同番組作りにお付き合いすることとなった。取り上げられたテーマは「爪句」で、パノラマ写真を撮って爪句を捻り出す趣味の世界に焦点が当てられ、1週間ほどにわたっての取材となった。
 番組担当のデレクターは札幌映像プロダクション所属の成田清美さんで、番組作りのためSTVに派遣されていた。札幌円山とか羊ケ丘のような絵になる場所での取材の他に、駅のパノラマ写真を撮っている様子も撮りたいとの申し出がある。そこで留萌本線はどうか、ということで泊りがけでの取材となる。同行者は福本工業の福本義隆社長と同社のパノラマ写真家の山本修知氏である。
 深川駅からパノラマ写真撮影グループはレンタカーで出発する。それをSTVのスタッフが追いかける。北一已駅で雪の駅舎やホームでパノラマ写真を撮影しているところをテレビカメラが録画撮りである。パノラマ写真を撮っている様子をテレビカメラで撮るということは、こちらのパノラマ写真に取材スタッフが写るということでもある。パノラマ写真に写っているカメラマンは喜井雅章氏、音声担当は松本尚也氏であった。
 この日(2013年2月7日)は留萌本線の終点の増毛駅まで行っている。増毛町では国希酒造にもカメラを入れている。増毛駅の隣駅の箸別駅にも寄ってパノラマ写真を撮る。取材初日は留萌市内泊となる。
 翌日は留萌駅を出発して深川駅方向に向かってパノラマ写真撮影となる。大和田駅まではSTVの取材スタッフも一緒についてくる。大和田駅からはSTVのスタッフと別れて、テレビカメラを気にせずにパノラマ写真撮影だけに注意を集中する。
 成田さんの経歴を後で聞くと、24年ほど前にテレビ制作の仕事に入り、出産のため退社、二人の子どもの母親で、現在は「どさんこワイド179」のデレクターを勤めているとのことである。番組の数字179は北海道の市町村数である。平成の大合併により市町村数もかなり減ったものだと気がつく。


HPFhito41-2%E3%83%BB%E6%88%90%E7%94%B0%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%95A.jpg

成田さん(中央)とスタッフ。パノラマ写真に離れて写っているのは山本氏。

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito40・デジタルモアイ像製作者の彫刻家國松明日香氏

 後に「サッポロバレー」と称されるようになる札幌情報産業の黎明期に、キーパーソンの一人に三浦幸一氏がおられた。「ソード札幌」の役員として同社を立ち上げ、後に「テクノバ」社の社長になっている。惜しむらくは、2000年に57歳の若さで亡くなっている。三浦氏の死が契機で、2000年に「三浦・青木賞」が設けられた。札幌や道内のIT業界の新人を発掘して表彰しようとする目的の賞であった。
 社会人と学生の部門の大賞入賞者には、賞金50万円の他に副賞としてブロンズ像を贈呈することになった。そのブロンズ像の制作を彫刻家の國松明日香氏に依頼した。出来上がった像は抽象的なもので、なんとなくモアイ像に似ていることから、関係者間では「デジタル・モアイ像」と呼んでいた。賞は5年間で終了する予定のプロジェクトで、像のプレートには第1回から5回までの授賞式の日付が彫り込まれるスペースが空けてある。4回目まで授賞式が行われたが、5回目は授賞式の記録がなく記憶も定かでない。確かめたことはないけれど、國松氏はこの小物の作品については、制作したことを忘れているかもしれない。
 國松氏とは「伊藤組100年基金」の評議員や「北海道アートマップ」編集制作検討委員会などでご一緒させていただいている。札幌市立高専の教授時代には同校の先生の研究室を訪問したことなどもある。「カスケード」社の服部裕之社長がイサム・ノグチの作品の蹲(つくばい)を札幌市に寄贈した。2013年11月に行われた贈呈式で、ガラスのピラミッドの会場で國松氏を見つけてパノラマ写真撮影となる。
 國松氏は1947年小樽生まれで、父親は國松登画伯である。長男希根太氏も彫刻家なので、芸術家の家系である。明日香氏の作品は南6条西5丁目の交差点のところにある「出逢い」のような具象作品は初期のもので、鉄製の抽象作品を制作し、札幌市内や道内に多くの作品が設置されている。作品を見るとすぐに國松氏のものであるとわかるものが多い。鉄を素材にすると重くて加工が大変だ、と何かの折に聞いた記憶がある。


HPFhito40%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%82%A2%E3%82%A4%E5%83%8F%E3%81%A8%E5%9C%8B%E6%9D%BE%E6%B0%8FA.jpg

(パノラマ写真はガラスのピラミッドでの國松明日香氏)

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito39・親子3代で北大に関係するノーステクノロジー呉敦社長

 ノーステクノロジー社の呉敦氏は中国吉林省長春市の出身である。吉林大学を1981年に卒業して、北大電気工学科大学院に進学、1988年に博士号を取得している。呉氏の父親が北大の医学部を卒業していて、その事もあって北大進学を選択したとのことである。現在、呉氏の娘の里実さんが北大医学部に在籍というから、親子3代にわたって北大のOBと現役生である。なお息子の喬実さんは京大で農学を専攻している。
 呉氏の北大時代の話に及ぶと、氏の博士論文審査の副査の一人で筆者も加わっていたらしいのだが、記憶にない。論文をパラパラとめくってOKとでも言ったのか、その話が時々出てくる。北大に勤務していた時は、中国人留学生の博士論文の主査でかなりの学生の面倒を見ていた。加えて副査もあれこれと頼まれ、提出された論文は斜め読みで、これでは記憶に残っていない。しかし論文提出者の方は副査のことを記憶している。
 呉氏は博士号取得後東芝に11年間勤め、1998年札幌に現在の会社を立ち上げた。情報システムのソフトウェアが仕事の内容である。札幌を創業の地に選んだのは、日本国内では中国東北地方の風土や気候が似通っている北海道に惹かれたせいである。日本での母校の北大の所在地が札幌であることも影響しているだろう。
 中国に精通して中国語ができるので、中国遼寧省大連市に大連北光信息技術公司を創りその理事長でもある。中国の大学の客員教授も勤めている。筆者は2005年上田文雄札幌市長に「eシルクロード親善大使」制度を進言して、同制度が設けられた。親善大使8名の一人として呉氏にも加わってもらった。この制度は親善大使が札幌とアジアの情報産業の盛んな都市の人的交流や情報交換に寄与していくもので、呉氏は適任者であった。同制度の活動のために組まれた予算が無く、8年ほど続いたが現在は無くなっている。
 ノーステクノロジー社は札幌駅北口から近いビルの二階にある。何度か行ったことがあるのだが、パノラマ写真を撮りに行くのは初めてである。社員が仕事をしているオフィスに立ってもらっての撮影である。その後少しばかり話をする。今年(2014年)で57歳になる呉氏は、子ども達も大きくなって、仕事一筋から趣味にも軸足を移してきているようである。釣りとゴルフが好きだとのことであるけれど、釣りもゴルフもしない筆者は、この方面で共通の話題は見つけられなかった。


%E7%A4%BE%E5%86%85%E3%81%A7%E3%81%AE%E5%91%89%E6%95%A6%E6%B0%8FA.jpg

(社内での呉敦氏)

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

自室の在った工学部本館

雪景色 見下ろした時代(とき) 過ぎにけり


PHUS1.9%E9%9B%AA%E6%99%AF%E8%89%B2%E3%80%80%E8%A6%8B%E4%B8%8B%E3%82%8D%E3%81%97%E3%81%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%EF%BC%88%E3%81%A8%E3%81%8D%EF%BC%89%E3%80%80%E9%81%8E%E3%81%8E%E3%81%AB%E3%81%91%E3%82%8AA.jpg

 工学部に入学した頃は白亜館と呼ばれた木造2階建ての校舎で講義を受けた。この校舎は取り壊され、新しく6階建ての教官・研究棟が建てられた。その6階の一室に自分の部屋があって、建物前の広場の四季の移り変わりを見た時代があった。

カテゴリー: 北大編 | 自室の在った工学部本館 はコメントを受け付けていません