HPFhito54・研究と研究予算獲得で忙殺される北大情報基盤センター長高井昌彰先生

 北大を退職後は大学で行われる何かの会合にも顔を出さないので、かつては顔を合わせていた先生方とも合うことがない。そんな状況で、たまたま頼まれた北海道地域ネットワーク協議会(NORTH)の特別講演の会場で北大教授高井昌彰(よしあき)先生を見つける。NORTHの副会長をしている関係で、講演会場に顔を出されたようである。日を改めて、北大情報基盤センター長室でパノラマ写真撮影をお願いする。
 同センターの建物は、以前大型計算機センターと呼ばれていた施設と同じもので、パソコンが普及する前にはデータの整理とか解析、シミュレーションはこのセンターの大型計算機が頼りであった。電波や音波を利用したホログラフィーの研究を行っていて、プログラムとホログラムデータをパンチしたカードを預けて計算してもらい、プリンター用紙に打ち出される計算結果を翌日に取りに行くという、今では信じられないやり方で研究を行っていた時代を思い出す。
 センター長室でパノラマ写真を撮り、研究や大学の運営についての四方山話になる。以前高井先生がどんな研究をしていたか忘れてしまっていて、聞いてみる。画像やコンピュータグラフィックスが研究テーマで、筆者が主宰していた「札幌国際コンピュータグラフィックスシンポジウム」に論文を提出されている。帰宅してから約20年前の論文集を見返すと「セル構造オートマトンによる粒子運動モデル」と題した論文があった。
 現在の研究を聞くと画像処理や拡張現実感の研究で、研究の大きな流れは以前からのものである。大学院の学生は工学部の方から配属され、その教育・研究指導を行っている。センター長という立場にあり、大学の経営に首を突っ込み、そちらの方の仕事が大変のようである。
 国立大学は国立大学法人になって、大学の経営というこれまで経験したことのない事を試行錯誤的に行っている。国からの交付金が年ごとに減らされてきていて、それも大学毎の成果が評価され減額の幅がきまる。大型計算機センター時代のように、毎年確実にくる予算内で学内のサービスを行っていればよい時代は去って、旧7帝大に東工大を加えたクループの大型計算機センターが連携して研究を行っている点を文科省にアッピールする必要がある。加えて、学内や道内の高専との共同研究推進も行い、大学の経営陣にも理解してもらう必要がある。こうなると会議の数も増え、大変そうである。しかし、センター長という立場では交付金の大幅な目減りはなんとしても防ぐ必要があり、その責任は重そうである。
 以前は大学の教職員の給料は年毎に昇給していたけれど、今や年齢が上になると減ることがあっても増えることはなくなってきている。大学の先生も年俸制の導入が検討されていて、研究成果によって、給料の差が出てくる時代に入りつつあるようだ。
 高井先生は1960年生まれで今年(2014年)に54歳になる。定年まで後10年で、これからの10年はすぐに経ってしまうなど、年金生活者の気楽さでコメントする。趣味など個人的な事を聞きそびれて、後でインターネットを検索したらクラシック音楽鑑賞とあった。札幌交響楽団のパトロネージュだそうで、そんなサポーター制度があるのを初めて知った。
  インタビュー原稿のチェック時に、高井先生の今の趣味が真空管ラジオの製作であることを知った。このデジタル時代に、周波数カウンタやオシロスコープを5球スーパーやニキシー管で自作するとは、それも真空管やコイル、バリコン等は昭和28年頃製造の骨董品を使っているというから、これはオタクの趣味人である。


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(センター長室の高井昌彰先生、2014年3月5日)

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HPFhito53・旧北海道拓殖銀行の半沢直樹だった上光証券社長の松浦良一氏

 上光証券と聞いて多分東京に本社がある証券会社だろう、ぐらいにしか認識がなかったけれど、この証券会社は札幌に本社があるれっきとした地元の証券会社である。戦前のピーク時には、札幌や道内各地に100社もの証券会社があった。しかし、その証券会社も減り続け、2002年に函館証券が廃業して、上光証券のみが道内唯一の証券会社として残った。
 北洋銀行の小樽中央支店長も勤めた松浦氏は、ある事で筆者の事を知っていたらしい。以前、北洋銀行副頭取であった横内龍三氏のはからいで「小樽・石狩秘境写真展」を同支店ロビーで行ったことがある。その時の話らしいが、同支店長の経験のある松浦氏は、展覧会時には上光証券に移られているはずで、筆者には展覧会での松浦氏の記憶はない。しかし、その話がきっかけでもあり、松浦氏を北1条通に面したビル内にある同社の社長室に訪ねる。
 社長室でまずパノラマ写真を撮る。立った松浦氏の背後の壁には「Hokkaido Super Claster」の2014年度のカレンダーが貼ってあり、地元のIT業界との付き合いがあるのが伺える。
 会社の「上光」は「浄光」名を持つ浄土真宗のお寺さんが「浄」を「上」に変えて小樽で商店経営を始めた。その「上光商店」が証券取引を行ったのが現在の同社のルーツになるそうである。松浦氏は2006年に北洋銀行から上光証券に移っている。
 松浦氏は1951年札幌生まれで、小樽の潮陵高校で地学を志しながら方向転換で、早稲田の商学部を卒業した。三菱銀行も受かったのだが、地元の銀行ということで北海道拓殖銀行(拓銀)に入行している。拓銀時代の話を聞くと、昨年(2013年)TBSの人気ドラマ「半沢直樹」に重なる部分がある。半沢直樹は不良債権回収のため企業の立て直しに奔走する。松浦氏も不良債権の回収という、いわば銀行の後向きの業務に携わることが多かったようで、その筋の客との対応に身の危険を感じたこともあったそうである。
 旧拓銀の半沢直樹のようだと言ったら、ご本人は否定しなかったので、ドラマにあった事と似通った事を体験されて来たのであろう。しかし、不良債権の回収も、旧拓銀の貸出しが5兆円規模のところに1兆1千億にも上る額では万事休すである。旧拓銀は1998年北洋銀行に営業権譲渡で消滅した。それに伴い松浦氏も北洋銀行に移り同行大通支店長などを勤め、常務になり、第三の勤め先の上光証券に副社長で迎えられた。
 社員数が70名程度の地方の証券会社を、地方都市で経営して行けるのはどうしてか聞いてみる。手数料は東京に本社のある大手証券会社の方が安く、ネット証券ではさらに安くなる。ネット取引は手軽なこともある。しかし、顧客の信頼を勝ち得えることで、顧客の満足度は大手の証券会社以上のものがある。そこに地方の証券会社が生き延びる道が見えてくるとのことである。
 会社の自分の席を温める暇もなく、仕事で社内外に足を運ぶ毎日のようである。趣味に類した話はあまり無く、ウォーキングで北海道神宮境内にある旧拓銀の物故者を祭った穂多木神社まで参拝に行くとのことである。以前、札幌の秘境を取材していて、旧拓銀の大金庫の写真を撮ったことや、穂(北海道の北の音に漢字を当てはめている)や多木(拓銀の音から取っている)の謂れを思い出した。


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(社長室での松浦良一氏 2014・3・5)

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シリーズ1248・「パノラマ写真」ここはどこ

 以前別の角度からの写真で問題を出した駅です。さて、ここはどこの駅。


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HPFhito52・たたき上げ感覚で会社経営をしてきた央幸設備工業(株)会長尾北紀靖氏

 央幸設備工業(株)のメインの仕事は建設設備であるけれど、バイオ事業部があり霊芝(キノコの一種)の栽培を手掛けている。「北海道霊芝」という央幸のグループ会社では霊芝の商品化と営業を、やはりグループ会社の「旺煌」で霊芝の健康食品「旺煌」を販売している。同社の北広島にある工場で霊芝が栽培されている様子を、道新文化センターの講座受講生と一緒に見学したことがある。また、霊芝栽培について、勉強会「eシルクロード大学」で尾北紀靖氏や実際に担当している宮崎稔氏に話していただいたこともある。
 以前、国道12号で菊水から白石中央に行くところの陸橋からLEDの巨大デスプレイを見ることができた。これは今休眠状態にある同社のグループ会社「アルファビジョン」が開発した、当時国内で先端を行っていた大型デスプレイ装置であった。国内の大手メーカーがこの分野に進出したため、この装置のその後の展開は止まった。このデスプレイ装置のあったところに同社がある。
 央幸グループ会社の会長や社長を務める尾北氏と顔を合わせて立ち話はしても、会社を見たことがない。今回パノラマ写真撮影のため央幸設備工業を訪ねる。同社の会長兼社長室でパノラマ写真撮影後、インタビューとなる。
 尾北氏は生まれた年が1940年で筆者より1年上となる。たたきあげの経営者だと自己紹介である。出身地は美唄で美唄工業高校の夜間部を出ている。夜学生時代に昼間は働き、工業高校卒業後は「立川工業」で設備関係の仕事をしている。28歳の時負債で倒産状態の「エスケー工業」を引き受けることになり、立川工業を退社する。3年間で破産会社の負債全額を返却し、会社を立ち直らせている。若くて会社を再生させることが出来たのは、たたき上げの現場感覚があったからだと尾北氏は述懐している。
 会社再生に成功してから社名を新しく「央幸」を冠したものにする。この社名の意味を尋ねると、「央」は中央の意味で、社員が中央に集まって「幸」福になろう、といった意味らしい。もう一つの理由付けは、名前のそれぞれの漢字が左右対称で、裏からみても央幸と読める。裏表に違いの無い会社にしたい、との願いを社名に込めたそうである。
 40年間以上続いている現在の会社は社員数30数名である。リーマンショックも経て、会社の業績はこの7,8年間でV字回復している。仕事も下請から元請の立場に変更してきている。しかし、建築設備の将来を考えると、仕事の柱として別のものも考えておく必要がある、とバイオ事業部を社内に設け、北海道産の良質霊芝の栽培を手掛けてきている。同社の霊芝が、免疫力を高める作用のあるβ-グルカンの含有率が最高のものである分析結果を関係研究所から得ていることや、アメリカの学会での論文発表で注目された事は、前述の勉強会で尾北氏から聞いている。
 霊芝商品の市場開拓に台湾、フィリッピン、韓国、シンガポールと海外出張でも忙しそうである。社長を務める「北海道霊芝」にも人材を充実させようと、この春(2014年)札幌の大学の大学院を卒業する2人の中国人留学生を採用している。将来はアフリカも視野に入れ、マダガスカル出身の社員も居る。たたき上げの人材は今の時代に得るのは難しいところであるけれど、優秀な外国人が入社してくる時代にもなっている。人材という点から、将来の布石を今から打っている。
 趣味を最後に尋ねてみる。見かけによらず多趣味のようで、山歩き、釣り、専門誌の読書、絵、音楽等々で、音楽は真空管のアンプを自作して聞いたら、かすかにトライアングルの音が再現できていたのに感激したとのことである。


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(会長室での尾北紀靖氏)

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シリーズ835・パノラマ写真「ここはどこ」

 道路より少し高い場所に駅舎があります。さて、ここはどこ(の駅)。


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シリーズ834・パノラマ写真「ここはどこ」

 かつて幌倉駅とも呼ばれていたここはどこ(の駅)。


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HPFhito51・企業寿命30年説を覆すデジック社長中村真規氏

 IT業界は日進月歩の技術革新で、企業の浮き沈みが激しい。企業寿命30年説はこの業界では特に異を唱える話でもない。むしろ、30年も生き延びる企業は珍しいかもしれない。中村真規氏がオーナー社長である「デジック」は、その前身時代から数えて30年以上経っている。
 筆者は「知識情報処理研究振興会」を組織していた頃があって、同会で「北海道ベンチュアランド企業群」という、北海道のIT企業紹介本を1984年に刊行している。あれから30年経って、本に収録している企業や経営者で、現在も続いて仕事をしているのはわずかである。
 業界団体もしかりである。同書に名前を連ねている「北海道マイクロコンピュータシステム工業会」(代表幹事 故北島健一氏)、「北海道ソフトウエア事業協同組合」(理事長 川端貞夫)、北海道ソフトウェア協会(会長 故小林英愛氏)は今は無い。
 中村氏の会社は同書には「NC情報処理(株)」で紹介されている。NCの名前がついているのでNumerical Controlの連想で、そのような業種に関連する会社かと当時思っていた。今回、中村氏のインタビューで、氏の改名以前の名前「中村力」の頭文字であると聞いて、そうだったのかという思いである。中村氏は2001年に「真規(まさき)」と改名して、会社の名前も「デジック」に変えている。
 中村氏は1947年生まれで、青山学院大学経営学部を卒業し、日本ユニシス(旧バローズ)勤務を経て札幌で起業している。現在の会社は運輸や通信の管理システムの開発を行っている。仕事の9割方は東京からのものである。東京の企業が中国などに仕事を発注するオフショアに対して、北海道の人件費が中国よりは高くても、東京よりは低めの優位性を生かしたニアショアでやっているとのことである。中国のオフショアに対する北海道のニアショアの売り込みの決め台詞は、北海道は「反日的ではない」との冗談が飛び出す。
 海外はロシアのウラジオストックで企業連携を行っているとのことである。札幌のIT産業を1兆円の大台に乗せるには、技術者をはじめとする人材を集める必要があるとの持論である。人材養成にも関連して、京都情報大学院大学のサテライト教室を同社内に設けて、自ら同校の教授も務めてている。講義科目を聞くと「IT企業実践論」と答えが返ってくる。
 北海道IT推進協議会の会長を務めたことがあり、現在は北海道情報システム産業協会の会長や北海道コンピュータ関連産業健康保険組合の理事長、その他の団体の役職に就いている。ご本人言では、組織を作るのが好きだとのことである。
 組織作りは趣味には入らないと思うので、改めて趣味は何かと質問すると、カメラと写真撮影かな、との答えである。かなり以前の話になるけれど、中村氏は料理屋も経営していたことがあった。ITと料理屋が結びつかないので質問してみると、自分の好きな物を食べさせてくれる店を探していて、いっそのこと自分で作ってしまえ、と始めたとのことである。この店は今は無い。
 北海道ソフトウェア協会があった頃、会長の小林英愛(ひでちか)氏と副会長の中村氏のコンビが長く続いた。小林氏はワインに凝っていて、ソムリエの資格を持っていたはずである。小林氏が、自分はソムリエではなく「ノムリエ」であると言っていたのを記憶に留めている。その小林氏も今は故人である。


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(デジック社長室での中村真規氏、2014・2・25)

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HPFhito50・マイコン時代からのつながりの北大水産科学研究科教授飯田浩二先生

 北大学術交流会館でのシンポジウムでの特別講演を終え、隣の建物の北大交流プラザ「エルムの森」で持参PCを操作していた。そこに背後から声が掛かる。函館にキャンパスのある北大水産科学研究科教授の飯田浩二先生が立っておられる。長いこと会っていなかったこともあり、筆者であるかどうか確信が持てずためらっていた、との飯田先生談である。これは奇遇である。
 飯田先生とのお付き合いは1978年頃まで遡る。筆者は、当時世の中に現れてきたマイクロコンピュータ(マイコン)を研究に利用しようと、応用技術開発の目的もあり、学内外の研究者や技術者、マイコン愛好家等を集めて「北海道マイクロコンピュータ研究会」を主宰していた。月1回、研究会の例会があり、時には道内の各地で研究会を開いていた。
 研究会の17回目は1978年の6月に函館の北大水産学部で行っている。この研究会の世話役を努めていただいた飯田先生の研究発表は「マイクロコンピュータによる水中音響測定システム」であった。水産の分野の研究者(大学院生)であった飯田先生が、いち早くマイコン技術を研究に利用しようとしていたのは、筆者の状況と重なる。
 飯田先生は1981年北大水産学部の助手に採用され、講師、助教授を経て1998年教授になられている。主要な研究テーマはソナーを用いた音響海洋資源調査と解析といったものである。音響ホログラフィ技術で、音波や超音波による物体の可視化技術の研究をしていた筆者は、研究上でも飯田先生とのつながりができることになった。
 筆者の研究分野の国際学会に「Acoustical Holography」と銘打ったものが1967年に創設され、その第1回目に筆者も論文を提出している。この学会はその後「Acoustical Imaging」と名称を変えて続いている。この学会に飯田先生との共著の論文を発表したり、同道で参加した思い出がある。1989年にサンタ・バーバラで開かれた第18回目の学会の論文集が手元にあり、飯田先生との共著論文が載っている。論文名は「Three-Dimensional Display Technique for Fish-Finder with Fan-Shaped Multiple Beams」である。
 筆者の研究はその後信号処理やコンピュータグラフィックス、メディア工学の分野に変わっていったので、飯田先生とのつながりは薄れた。今回偶然の再会で、急きょ飯田先生のパノラマ写真を撮る。「エルムの森」店の北大グッズが置かれているところに、筆者の都市秘境本や「爪句集」の豆本が並べられていて、パノラマ写真にも写るように撮影する。
 この原稿を書いていて、研究者としての現役時代には、分野外の人が読んでも(読まれることはあまりなかっと思われるけれど)理解の及ばない研究論文に精魂を込めていたのを思い出す。もうその研究生活には戻れないだろうという感慨がある。今は誰が見てもわかる写真と、写真の説明の域を出ない「爪句」を捻り出す自称爪句作家で、自分も随分変わったものだと思う。その変わり様が顔つきにも出て、飯田先生は筆者であることを、一目では確信が持てなかったのだろう。


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(北大交流プラザ「エルムの森」での飯田浩二先生、2014・2・18)

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HPFhito49・神棚付近代的オフィスでの大林組札幌支店長田實耕一氏

 大林組札幌支店は日本生命札幌ビルの10階にある。同社札幌支店長の田實耕一氏の話では、同ビル建設の元請が大林組であった経緯があり、店子として入居している。ゼネコンと称される企業では、仕事を請け負った受発注企業間の関係が後々まで続くので、銀行の取引関係はいうに及ばず、会社で調達するビールまで影響が及ぶ話を聞いて驚く。因みに大林組は札幌のアサヒビール工場の建設に関係したので、社内的なビールはアサヒと決まっている。したがって、サッポロビールの親睦団体への加入は遠慮するというから、一般市民には伺い知れない企業間ネットワークがある。
 大林組札幌支店の受付に、大林の名前がデザインされた大きな瓦のレプリカが飾ってあり来訪者の目を惹いている。大阪にルーツのある同社のシンボルになっているようである。支店長の田實氏の部屋に通された時、雪で覆われた北海道庁が窓から見下ろせ、見事な眺めである。同ビルの11階にある三井物産の北海道支社の角田道彦支社長の部屋から見た景色と重なる。
 三井物産は北海道支社、大林組は札幌支店と称している違いが気になる。ルーツの大林店を継承しての支店はわかるとしても、北海道支店ではなく札幌支店としている点を田實氏に聞きそびれてしまった。
 支店長室で目に止まったものに神棚があった。スーパーゼネコンと呼ばれる近代的企業の支店長室に神棚があるのが印象的である。北海道神宮の分祠(表現が適切であるかどうかわからないけれど)で、同神宮の企業内営業所みたいなものかと思う。工事現場の起工式などで神事が慣習として行われるので、ゼネコンのオフィスに神棚があっても不思議ではないのかもしれない。
 田實氏のパノラマ写真を2,3枚撮って、支社長室で雑談的インタビューである。氏は1950年の大阪生まれである。大学は信州大学の工学部というので、大学時代に信州の山にでも登っているのかと聞いてみると、大学時代は山登りとは縁が無かったとのことである。山登りは建設現場を巡る関係もあり、就職後に経験することになる。
 大学時代には陸上短距離をやり、同和問題にも首を突っ込み、子ども達相手のサークル活動を行っていた話が出てくる。北海道では同和問題といっても言葉の意味がわからない。北海道のアイヌ民族問題は、ルーツは異なる民族にあるので話はある程度理解し易い。加えて、最近はアイヌ文化を日本の中の異文化として理解することが進んできている。対して、同和問題は北海道では霧の中にあるようだ。
 大手ゼネコンに勤めているので海外勤務経験があり、シンガポールとタイの支店の行き来をした時代がある。筆者も学会でシンガポールに行った思い出があるので、セントサ島の話など出る。本島とセントサ島に架かる橋の建設にも大林組が関わった。田實氏がシンガポールで勤めていた頃はこの橋は出来ておらす、船で島に行ったそうである。
 札幌支店長として2011年の4月に赴任しているので、札幌での生活は3年間ほどになる。札幌で登った山を聞くと円山だけで、藻岩も手稲も登っていないとのこと。札幌に居る間にオフィスの窓から眺めるだけではなくこれらの山に一度は登るように勧めてみる。
 田實氏の年齢(63歳)になると退職後にすることなどを温めておられるだろうと聞いてみる。予想外の答えは、林業に関することだそうである。林業を関わっている息子さんの影響もあるらしく、国土を拓く立場のゼネコンとはある意味対極にある国土の環境保全につながる仕事を視野に入れている。
 会社に残るよりは、後進に早めに道を譲り、残された時間を確保して、新しいことにチャレンジしたいとの希望を内に秘めておられるようであった。


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(支店長室での田實耕一氏、2014・2・21)

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HPFhito48・新聞からテレビ業界へ転身したテレビ北海道社長関口尚之氏

 北1条カトリック教会の近くに歩道橋があり、北1条通を跨いだところにテレビ北海道(TVh) がある。建物の壁に「おかげさまで開局25周年」の垂れ幕が下がっている。逆算すれば開局は1989年となる。同社は北海道にある民放5社の最後発の会社である。
 同社社長の関口尚之氏のパノラマ写真を社長室で撮影して、同社設立の経緯を話していただく。テレビ東京系の民放が北海道に無かった時、日本経済新聞(日経)と北海道の財界が中心となり、北海道で5番目の民放会社設立が実現した。このことで、現在の同社の大株主は日経、伊藤組、北海道新聞社(道新)と並んでいる。社長の関口氏は日経から転身し、昨年(2013年)6月に社長に就任している。
 関口氏は生まれは千葉県で、慶応大学法学部を卒業後日経に就職している。経済分野での仕事が主で、記者時代には役所回りをする生活であった。札幌勤務の経験があり、1979年から北海道支社の記者として4年間、2000~02年に支社の編集部長として仕事をされた。北海道での思い出深い事件は、1981年に起きた、北炭夕張新炭鉱ガス突出事故だったそうである。
 民放のテレビはスポンサーからの広告収入で成り立っている。東京を中心とする企業のCMに加え、地元企業のCM、さらに系列親局からのネットワーク料などを収入の柱としている。こうなると、広告収入を上げる営業がテレビ業界では力を持つようになる。新聞では、広告収入のほかに読者が払う購読料も大きな収入となっており、テレビとは収入構造が違う。取材して記事を書き、購読料を支払ってくれる読者に還元する記者陣が中心となる点とはかなり異なるようだ、と関口氏と話していて感じた。
 関口氏にテレビ事業での課題と抱負を質問してみる。放送のデジタル化の移行に伴い、これまで過大の設備投資をしており、経営の安定化を第一に考えるというのは、経営者なら至極もっともなことである。インターネットのような新しい形態のメディアとの競争や棲み分けも課題である。最終的には、社員がTVhに勤めてよかったと思ってもらえる会社にして行きたい、との抱負も語られた。
 趣味の方に話を向けてみると、多趣味のようである。音楽を聞くことが好きで、Kitaraには良く行くそうである。演劇観賞の話も出てくる。仕事柄メディアに関する本も読むようで、「ブレーキング・ニューズ」の分厚い本を出してきて説明される。
 関口氏との話を終えた後、専務の嶋田健氏の案内で同社の放送現場を見せてもらう。嶋田氏は道新出身である。、4月から始まる道新文化センターの講座の見学先にTVhを予定していることもあり、参加者に配布する資料用の写真を撮らせてもらった。


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(社長室での関口尚之氏、2014・2・20)

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