HPFhito62・石倉のあるユニークな美術館に作品を展示する銅版画家森ヒロコさん

 小樽市緑1丁目に「森ヒロコ・スタシス美術館」がある。森ヒロコさんは銅版画家であり、スタシス・エイドリゲヴィチウスはリトアニア生まれでポーランドの世界的芸術家である。同館は、国も経歴も大きく異なる二人の作家の名前を冠した、私設のユニークな美術館となっている。館長は森先生の夫君の長谷川洋行氏である。
 森さんは1942年に小樽の質屋の娘として生まれている。現在、美術館の一部として改装されている石倉は、生家の質店の質蔵であった。森さんは小樽緑陵高校(後の小樽商業高校)から女子美大短大に進学し、卒業後はグラフィックデザインの仕事に就いている。しかし、この仕事は自分には向いていないと見切りをつけ、小樽に戻る。28歳の時、小樽の画材店で開かれた小さな講座で銅版画に出会い、その繊細で硬質な表現に夢中になったそうである。
 銅版画家として作品を制作し出してから、全道展知事賞(1972年)、全道展道立美術館賞(72)と受賞が続き、各地での企画展にも作品を出展している。森さんは多くの作品を発表して来ている。森さんは猫がお気に入りのテーマのようである。生計のためにも作品は売られており、筆者の家の者が買ったものはやはり買い物をする猫である。
 長谷川氏は札幌でNDA画廊を経営していた時期があり、森さんはそこで個展を開いたり、銅版画の教室を持って教えていた。筆者は1991年NDA画廊で「コンピュータグラフィックスホログラムとスケッチ展」を開いている。この個展は当時としては先進的技術でもあったので「CGホログラム個展」として北海道新聞(1991.3.25夕刊)に写真入りの解説記事が載った。この個展が森さんを知るきっかけではなかったかと思うのだが記憶ははっきりしない。
森さんは目を悪くして、療養も兼ねて長沼町で自然の中で園芸などに従事していた時期がある。その頃長沼町では芸術家を町内に招いて制作活動を行ってもらうプロジェクトが進行しており、長谷川氏もこれに関連していた。この頃両親が高齢で介護が必要となり、再び小樽に戻る。両親の他界後、長谷川氏の提案で生家の石倉を改築し、NDA画廊を札幌から移している。1998年、通りに面した部分を新しく増築し、現在の美術館の形になった。
 美術館には、前記のスタシスの作品の他にもスロバキアの銅版画家アルビン・ブルノフスキーの作品、ホーランドの絵本作家のユゼフ・ウィルコンの動物のオブジェが館内に展示されている。東欧の芸術家との繋がりがあるのは、長谷川氏が毎年スロバキア国立オペラ座から歌手を呼び、日本各地でオペラ公演をしていることに関係しているようである。
 目の病が癒えてから森さんは精力的に制作活動を続け、カナダ、アメリカ、イギリス、ブルガリアでの展覧会を開催したり作品を出品したりしている。近年は2,3年おきでパリ、オーヴェル、ストラスブールでの作品展を開いており、フランスだけでも5回を数える。
 森さんの仕事場でパノラマ写真撮影となる。銅版画のエッチング法では、銅に防蝕膜を塗り、その上から鉄筆で絵を描き、それを塩化第二鉄で銅の線画部分を腐食させて銅版画の原版を作る。原版の銅の腐食部にインクを含ませ、プレス機でインクを紙に転写して銅版画ができてくる。この根気の要る仕事を長年行ってきた仕事部屋には、用紙やモデルにする小物の素材、資料、作品、展覧会ポスター等が置かれ、貼られ、箱に詰まっている。回転アームのあるプレス機もある。塩化第二鉄を入れる容器も見える。木版画でもそうであるけれど、版画の世界は芸術家と職人を兼ね合わせたところで作品が出来上がってくるので、仕事場を覗くと道具立てが大がかりで、パノラマ写真からその雰囲気が伝わってくる。
 森さんと長谷川館長の現在の懸案事項は美術館の将来である。それ自体が文化財になる石倉と、そこに収蔵されている作品が永く残る何か方策の検討が今から必要である。パノラマ写真ならディスクに収めておけばよいのだろうが、美術品となると事は簡単ではないと、森さんの話を聞いて思った。


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(森ヒロコさんの仕事場で、2014・3・29)

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HPFhito61・電極作りに精を出す産業技術総合研究所北海道センター主任研究員池上真志樹氏

 世紀の大発見から研究捏造に反転しそうな雲行きのSTAP細胞の研究が行われた理化学研究所は、国が面倒をみている研究所で、今後の特定国立研究開発法人(仮称)の候補に挙がっている。もう一つ、同じ法人組織にするのに名前の挙がっているのが産業技術総合研究所(産総研)で、同研究所の組織の一つである北海道センターが豊平区月寒にある。
 全国にある産総研のセンターはそれぞれの研究領域の部門があって、北海道の場合ライフサイエンス分野の「生物プロセス研究部門」と環境エネルギー分野の「メタンハイドレート研究センター」で研究を行っている。池上真志樹氏は前記研究部門の生体分子工学研究グループの主任研究員である。
 池上氏は筆者の研究室で「合成開口法を利用した超音波影像法の高性能化に関する研究」で1987年に博士号を取得して産総研に就職している。博士課程の時の研究と現在の研究テーマはかなり異なっていて、今回初めて同研究センターを訪れて研究内容を聞き、消化不良の状態で理解している。
 立ち話程度で説明された現在の池上氏の研究は、体内の代謝等に関与する酵素に電子を移動させて酵素の働きを活発化させ、生体情報のモニタリングを行う方法や測定装置の開発に関するものである。このため、酵素と接して電子をより効率的に酵素に移動させる電極、酵素固定化電極の開発を行っている。例えば、血糖値を測るグルコースセンサー等も研究開発の範疇に入る。
 研究の粗筋を書くとこんなところでも、実際の研究は込み入ったものなのだろ。見せてもらった金メッキした電極は、何の変哲もないただの電極にしか見えなかった。しかし、研究上では工夫が凝らされた電極らしい。
池上氏は、博士論文の超音波で物体の映像を映し出す研究に関連した画像計測から、現在のバイオ関係の研究に至るまで、微小重力環境における燃焼研究、3Dプリンタによる臓器モデル製作、光干渉型バイオセンサーと器用に色々な研究に携わってきている。
 池上氏は1958年の東京生まれながら、出身は札幌といってよく、札幌小学校、札幌中学校、札幌開成高校、理科大と進み、大学院で北大に進んだ。筆者は道新文化センターで都市秘境散策の講座の講師を務めていて、産総研を都市秘境に見立て、市民を連れて研究所の見学を予定している。その下見も兼ねて池上氏を訪ね、研究所の建物前でパノラマ写真撮影となった。
 かなり広い構内にいくつもの研究棟があって、研究室の雰囲気を見せてもらった。大学の構内の雰囲気に慣れているせいか、構内にも建屋にも人が少ない、という印象を受けた。何か都市秘境めいているな、と感じて受け持っている講座の見学先にはうってつけかと思われた。


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(産総研北海道センターでの池上真志樹氏、2014・3・27)

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HPFhito60・無名会

 旧北海道拓殖銀行(拓銀)元専務の石黒直文氏が代表世話人の「無名会」と称する朝食会がある。月一回、ホテルに集まり朝食後、1時間程度講師の話を聞く会である。会員は30名ほどで、金融関係、マスコミ関係、コンサルタント関係、大学教授、有力企業の北海道支社(支店)長等がメンバーである。
 2014年の3月20日は、この年度の北海道功労賞受賞者ということで筆者が講師役で、「北海道IT産業の創生と若い世代に未来を託して」と題した話をした。話が終わってから良い機会なのでパノラマ写真を撮る。
 当日出席した方々は、席順不同で石黒直文(元拓銀専務)、山縣尚武(北海道ショッピングセンター顧問)、馬杉栄一(馬杉栄一法律事務所)、松田従三(ホクレン農業総合研究所)、藤田久雄(北海道地域農業研究所顧問)、檜森聖一(北海道二十一世紀総合研究所社長)、土井隆夫(大成建設札幌支社長)、角田道彦(三井物産北海道支社長)、常俊優(ノーステック財団副理事長)、高島英也(サッポロビール北海道本社代表)、曽我野秀彦(日本銀行札幌支店長)、関口尚之(テレビ北海道社長)、近藤誠司(北大農学研究科教授)、加藤仁(日本経済新聞社札幌支社編集部長)、迫田敏高(北洋銀行常務)、岡田実(北海道新聞社専務)、遠藤隆三(遠藤興産社長)の諸氏であった。
 上記の方々のうち幾人かには、仕事場まで押しかけてパノラマ写真を撮らせてもらい、インタビューを行っている。この会は、筆者のパノラマ風土記ー人物編の取材源の一つでもある。


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(札幌グランドホテル 2014・3・20)

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HPFhito59・銀行の社会貢献に知恵を出す北海道二十一世紀総合研究所社長檜森聖一氏

 「無名会」の名前の朝食会がある。代表世話人は旧北海道拓殖銀行(拓銀)元専務の石黒直文氏である。石黒氏の人脈ということもあり、会員は経済人、それも銀行関係者が多い。その中に北海道二十一世紀総合研究所社長の檜森聖一氏がおられる。この朝食会で筆者がスピーチした日に檜森氏のオフィスを訪ね、パノラマ写真撮影とインタビューである。
 檜森氏は1948年生まれの札幌出身である。中央大学卒業後拓銀に入行し、広報の仕事に長く携わってから京都支店長となった。父君も拓銀に勤めていて、やはり京都支店長であったとのことで、親子での道外支店長は珍しい。社長室の部屋の壁に飾ってある「和気満堂」の書は父君の筆によるものだとのことである。
 本店に戻ってからは公務金融部長で「ドウタン(道担)」役である。一時期銀行の大蔵省(MOF)担当の「モフタン(MOF担)」の言葉が新聞紙上を賑わしたことがあった。その北海道庁版の「ドウタン」の言葉があったとは、檜森氏の話を聞くまで知らなかった。
 拓銀が破綻して北洋銀行に営業権が渡り、檜森氏も北洋銀行に移り、公務金融部長から常務執行役員になった。前記会社の社長を兼務後、北洋銀行を退職して同社長を続けている。同社は北海道を基盤とするシンクタンクで、調査研究、提言、講演による啓蒙活動などが事業の内容である。
 檜森氏は銀行の社会貢献の知恵袋を自認している。これは北洋銀行会長横内龍三氏と二人三脚のとも言える。横内氏が銀行の社会貢献を推進することに前向きで、横内氏の人柄に惚れ込んだ檜森氏が、知恵袋の役目を果たしているようである。
 その一つの例として、横内氏が北海道の絶滅危惧種のシマフクロウの保護を支援するために昨年(2013年)立ち上げた「北海道シマフクロウの会」の事務局を同社に置いており、会報の発行や啓蒙活動を積極的に進めようとしている。
 趣味としてゴルフ、読書にアスレチックスが出てくる。アスレチックスは趣味というより健康管理のためだろう。一時期は100キロを超す巨漢であったそうで、病気もあり体重が減ったのを期に、体重維持のため散歩も併用して動くようにしているとのことである。フットワークを軽くして、歩くことばかりでなく、多くの兼職をこなしている。


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(社長室での檜森氏 2014・3・20)

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女子学生の袴姿が目立つ卒業式

卒業景 全周で撮り 記念なり 

くすむ景 袴に着物 切り絵なり 

 卒業式は学生にとって晴れ舞台である。女子学生が袴姿や着物姿で校舎の前に並ぶと、演出効果は一段と強まる。雪が残り木々の緑が戻って来ていないこの時期、くすんだ構内の風景に、袴や着物の絵を切り取って貼り付けたように見えてくる。年配者の姿もある。こちらは父兄のようである。学位記は総代が受け取って授与式が終わり、その後学科や研究室に分かれて学位記が手渡され、祝賀会が行われる。毎年のように祝賀会に出ていたのに、その記憶も薄れてきている。(2014.3.25-10)


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3月25日の卒業式

卒業や 学府内では 祭りなり

 卒業式の雰囲気を撮りに北大まで行く。卒業式の会場は構内の体育館で、入口付近に人が集まっている。学生や父兄達で、最近の大学の卒業式に来る父兄の数が多い。女子学生は袴姿で、卒業記念品の売り場が設けられ、お祭りの雰囲気である。(パノラマ写真)


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雪の原始林の名残の中にある恵迪寮碑

 木造2階建て4棟の恵迪寮はかつて原始林と称され、今は「エルムの森」の呼び名がある場所に建っていた。木造寮は取り壊され、一部が「北海道開拓の村」に移転・修築された。新しい恵迪寮につながる道の脇に「恵迪寮碑」が建てられている。寮名となった「書経」からの引用句「恵迪吉従凶逆惟影響」の文字が碑面に刻まれている。「迪(みち)に恵(したが)えばこれ吉、逆に従えば、惟(こ)れ影響」と読み下すとある。天の道に則れとの意らしいが分かり難い。(2014.3.23)

原始林 名残の中に 恵迪碑


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恵迪の 文字刻む碑に 朝陽差し

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雪に埋もれた球技場

雪原に 人踏み跡や 球技場

サッカー場 人影の無く 藻岩見る

 3月の下旬だというのに球技場は厚い雪で覆われていて人影が無い。雪が解ければサッカーやラグビーが行われる場所である。雪を漕いで球技場の入口近くでパノラマ写真を撮る。身体を回転させて撮った跡がパノラマ写真にはっきりと写っている。少し離れたところに人の踏み跡らしきものが雪で消えかかっている。動物の足跡のようなものも見える。農場に隣接し、周囲に大きな建物がなく、眺望が良い。札幌の西から南にかけての山並みが見え、藻岩山が眼前にある。(2014.3.23)


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六華のデザインの恵迪寮

六華棟 微細構造 蔦線画

向学心 雪に一筋 道拓き
 
 恵迪寮は1905年に学生の寄宿舎として建てられ、木造2階建で南、中、北、新寮の4棟からなっていた。建物の老朽化が進み、1983年に現在の建物が環状通と石山通の交差する近くに建てられた。5階建の建物は全体が雪の結晶を象っていて、上から見ると6方向に放射状に棟が延び六華のデザインとなっている。玄関を挟む2棟の壁を蔦が覆い、葉の落ちた冬には壁をキャンバスにして、線画で描いた壁画のように見える。夏や秋にはこの線画は緑や赤の彩色が施される。(2014・3・23-9)


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未開文明の絵文字のような恵迪寮の壁画

錯覚す 未開文明 絵文字なり

 恵迪寮の近くにある大学の施設のスポーツトレーニングセンターへの道の除雪のため、恵迪寮の横は排雪の雪山となる。その雪山の向こうに恵迪寮の壁が見え、学生が制作したと思われる漫画絵がある。未開文明の絵文字のようにも見えてくる。


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