HPFhito68・趣味は仕事という弁護士の馬杉榮一氏

 弁護士の馬杉榮一氏は、大通西9丁目の大通公園に面したビルに馬杉榮一法律事務所を構えている。弁護士をやっていく上で弁護士事務所は重要な要素だそうで、家賃の高いこの場所で長らく仕事を続けて来ている。弁護士には縁がなかったけれど、今回パノラマ写真撮影とインタビューで同事務所を訪問する。
 馬杉氏は1946年静岡県浜岡町生まれで、東京教育大付属中・高校から東大の経済学部に進んでいる。大学卒業後に直ぐ司法試験に合格し、法曹の世界に入ることになる。経済学部出で何故弁護士なのかとちょっと聞いてみる。世の中を渡って行くには手に職を、あるいは資格を持つのが良いとの考えのようで、堅実な方のようである。
 もう一つ、北海道に縁がないのに何で札幌に住み着くようになったのか質問してみる。こちらの方は堅実な考えとはかなり離れている。司法試験合格後法曹界で仕事をするためには、司法修習生として希望する地で経験を積む必要がある。馬杉氏の時代には2年間、現在は1年間に短縮されているこの研修制度は、以前は国から給料に相当するものが支給され、現在は奨学金のように後で返還する必要がある。2年間希望の地で経験を積むということで、氏の時代には列車と連絡船で来る東京から遠いところなのに、札幌は人気の地だったそうである。
 司法修習生の2年間を過ごした札幌が、その後40年以上もの弁護士生活の地になっている。結婚も札幌である。当時北海道では弁護士の居ない地方もあったので、弁護士は貴重な存在であったらしい。その点を改善する制度変更で、現在は弁護士が供給過剰気味だそうで、札幌市だけでも700名程度の弁護士が居るとのことである。弁護士や事務員を抱えて弁護士事務所の経営を行っていくのも大変そうである。馬杉氏は年齢も考え、抱えていた弁護士を独立させ、現在は事務員3名で身軽にしてやっていると話していた。公職や弁護士以外の仕事も減らしているようで、北洋銀行社外取締役や北大医の倫理委員会委員などは現在も続けている。
 書籍や資料が本棚に並んでいるところで氏のパノラマ写真を撮る。撮影後、近くのホテルのレストランでの昼食時にもインタビューは続く。話は司法全般に関するものになる。司法の世界は根幹のところで専門性というものが影を潜める。裁判官の仕事は、法律によるチェックという前段階はあるものの、灰色のものに対する白黒の最終的判断では素人の立場で対応する、と氏の話で気づかされた。例えば、医療過誤の問題が裁判に持ち込まれた場合でも、最終判断を行うのは医療プロの医者ではなく、医学に素人の裁判官である。したがって裁判官員制度で、素人の市民を無作為に選んで、裁判の最終判断に立ち会わせてもおかいことにはならないとの考えに結びつく。普通の職業では考えも及ばない。
 弁護士も同様に、抱えた案件の専門家ではない。もし、技術的な係争案件ならば、自分の経験に頼ることが出来ないので技術者の意見を聞く。何か台本家、役者、カメラマンを率いて演劇を行うとか、報道番組作るプロデューサーに似ているな、と思ってしまう。ただ、裁判官も弁護士も最終判断に至る過程で、素人状態からその分野の玄人に近づくことは当然ながら考えられる。すると、弁護士の仕事は勉強の連続という側面もあって、勉強家には飽きない仕事なのかもしれない。
 馬杉氏に趣味はと話を向けても、特に趣味に関する話にはならない。仕事が趣味というのも、前述のように素人がプロに近づいていくところに趣味の面白さがあることを考えると、仕事が趣味という馬杉氏の姿勢に納得する。2010年発行の「翔(はばたけ)」の氏の近況報告のパンフレットを渡されて見ると、旅行をしたりゴルフをしたりで、仕事がばかりしているのでもないことが垣間見えてくる。(2014・4・22)



HPFhito68%E3%83%BB%E9%A6%AC%E6%9D%89%E6%B0%8FA.jpg

カテゴリー: 人物編 | HPFhito68・趣味は仕事という弁護士の馬杉榮一氏 はコメントを受け付けていません

雪解けのホッケー場開き

ホッケー場 雪に代わりて 人模様

新緑を 待たず練習 開始なり  

 パノラマ写真を撮った屋外球技場は、1か月前には雪で覆われていた。4月下旬にはさしもの積雪も解け、球技場開きである。学生達が集まって練習の準備に入っている。手にした用具を見るとホッケーである。マネージャーらしき女子学生がホイッスルを吹いている。冬の間鈍った身体を解きほぐすことから始めているようである。ここから見える藻岩山や手稲山の山頂部分は残雪による白い斑模様である。これらの残雪が消える頃、練習は試合に向けて本格的になる。(2014・4・20-09)



%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%BC%E5%A0%B4%E3%80%80%E9%9B%AA%E3%81%AB%E4%BB%A3%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%A6%E3%80%80%E4%BA%BA%E6%A8%A1%E6%A7%98A.jpg

カテゴリー: 北大編 | 雪解けのホッケー場開き はコメントを受け付けていません

遺跡保存庭園のアカゲラ

 緑が戻って来ていない遺跡保存庭園は、地面には枯葉や折れた枝が目立ち、枯れたような枝が伸びていて殺風景である。しかし、野鳥の写真を撮るのには、葉に邪魔されることもなく、この殺風景は好都合である。アカゲラが飛んできて枯れ木に止って虫の追い出し作業を続けている。望遠レンズでアカゲラを撮ると周囲の状況が写らない。そこでアカゲラの止っている木が写るようにパノラマ写真を撮ってみる。(2014・4・20)

冬眠の 虫驚いて ドラム音

%E5%86%AC%E7%9C%A0%E3%81%AE%E3%80%80%E8%99%AB%E9%A9%9A%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%80%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%9F%B3A.jpg

鳥影を 追う春景色 枯れ木色


%E9%B3%A5%E5%BD%B1%E3%82%92%E3%80%80%E8%BF%BD%E3%81%86%E6%98%A5%E6%99%AF%E8%89%B2%E3%80%80%E6%9E%AF%E3%82%8C%E6%9C%A8%E8%89%B2A.jpg

カテゴリー: 北大編 | 遺跡保存庭園のアカゲラ はコメントを受け付けていません

雪解けのホッケー場開き

ホッケー場 雪に代わりて 人模様   

 ホッケー場を覆っていた雪が解け、ホッケー場開きのようである。学生達が集まって練習の準備に入っている。マネージャーらしき女子学生がホイッスルを吹いている。ここから見える藻岩山や手稲山の山頂部分は残雪による白い斑模様である。


9%E3%83%BB2%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%BC%E5%A0%B4%E3%80%80%E9%9B%AA%E3%81%AB%E4%BB%A3%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%A6%E3%80%80%E4%BA%BA%E6%A8%A1%E6%A7%98A.jpg

カテゴリー: 北大編 | 雪解けのホッケー場開き はコメントを受け付けていません

春伝令一番手の大野池の水芭蕉

 冬の間凍り付いてその上が雪で覆われていた工学部南側の大野池が水面を現してきた。大野池の脇をサクシュコトニ川が流れていて、春を知らせる伝令の一番手として水芭蕉が咲き出している。花株はそれほど多くはないけれど、木道を通って観賞することができる。パノラマ写真では水芭蕉と確認するのが難しいので、水芭蕉は望遠レンズで撮ってみる。木々の枝には未だ緑が戻っていないけれど、コブシや桜の花が先ず咲いて、花の散った後に緑が濃くなってくる。(2014.4.20)

木道の 賑わいも無く 浅き春


%E6%9C%A8%E9%81%93%E3%81%AE%E3%80%80%E8%B3%91%E3%82%8F%E3%81%84%E3%82%82%E7%84%A1%E3%81%8F%E3%80%80%E6%B5%85%E3%81%8D%E6%98%A5A.jpg

白ガウン 緑のズボン 春伝令

%E7%99%BD%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%80%80%E7%B7%91%E3%81%AE%E3%82%BA%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%80%80%E6%98%A5%E4%BC%9D%E4%BB%A4A.jpg

カテゴリー: 北大編 | 春伝令一番手の大野池の水芭蕉 はコメントを受け付けていません

HPFhito67・「天寿がん」を語る札幌がんセミナー理事長の小林博先生

 公益財団法人の「札幌がんセミナー」(SCS)から同法人の定期刊行物の「SCSコミュニケーション The Way Forward」が送られてくる。表紙の絵は、一目で画家金井英明氏のものであることがわかる。金井氏はこの風土記人物編でインタビューしていて、絵を目にし、顔見知りのSCS理事長小林博先生のパノラマ写真を撮ることを漠然とした予定の中に入れておいた。
 SCSは大通西6丁目にある北海道医師会館に入居している。建物の前を通ったついでにアポイント無しで訪ねてみる。小林先生は居られるだろうか、と期待半分で開いているオフィスのドアから覗き込むと、先生が机に向かって仕事中である。この時のインタビューで知ることになったのだが、先生は毎日この部屋に来ているそうである。そして、毎日きちんとした仕事があることが何より長寿に寄与している、との話を伺った。
 小林先生はがん学者として長年研究と教育に携わってきた。1927年に札幌で生まれているので今年(2014年)で87歳になられる。札幌第二中(現札幌西高)から北大医学部に進み、医学部の病理部門でがんの研究を行い、1965年には教授に昇進している。教授になったのは37歳の若さである。1991年に北大を定年退職し北大名誉教授となり、北海道医療大学教授や北海道医師会道民教育センター長などを歴任している。受賞も多く、日本医師会医学賞(1986年)、紫綬褒章(1990年)、日本癌学会吉田富三賞(2000年)、第一生命保健文化賞(2008年)などとある。
 小林先生との話は当然ながらがんに関するものになる。素人の興味で、がんとは戦うな、との持論を展開する慶応大学医学部の近藤誠先生の話題などを持ち出してみる。小林先生は、近藤先生は勇気があり、近藤先生も理にかなったことも言っているとのことで、近藤理論の全面否定の立場ではなさそうである。近藤先生との立場の違いは、放射線治療の近藤先生は画像を見てのがん治療で、小林先生は病理の立場から、実際のがんを肉眼で確かめての治療経験がある点の差であるらしい。
 ご自分でもガンに罹った経験がある。1990年に日本癌学会会長に就任した時期に肺がんが見つかり、会長職を全うしてから手術したそうである。それから20年以上健康で居られるのは、がん治療のお蔭ということになる。しかし、年を取ってからのがん治療は必ずしも良い選択でもない、といった意味の話もされる。「天寿がん」という言葉を持ち出されていた。天寿を全うするのに、死期の予測できるがんは好都合かもしれない。末期のがんによる痛みは薬でコントロールして、予測される余命ですることをやって、めでたく人生を終わる。
 よく人生の終わり方の理想に「PPK」(ピンピンコロリ)が言われるけれど、大概はそうならず、大方の人は、最後は身障者として生を終わる。小林先生は「PPK」は「ピンピン枯れる」で、枯れる手伝いをがんがしてくれる、と話されていた。それにしても小林先生はお元気である。健康の秘訣を聞くと、冒頭の話の、毎日SCSのオフィスに通ってやる仕事があることだそうである。その他には、毎朝シャワーを浴びて30分ほど体操をすることぐらいが健康法と言えるかもしれない、とこれといった特別の健康法を実践しているようでもない。寿命だから、という言葉が重みを増す。
 インタビューを終えてパノラマ写真を撮る。パノラマ写真を回転していくと、SCSが毎年行っている「がん特別セミナー」のポスターや海外でのボランティア活動の写真などが並んでいる。これらは写真撮影時にはよく見もせず、写真を合成してから見ている。


HPFhito67%E3%83%BB%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%8D%9A%E5%85%88%E7%94%9FA.jpg

(SCSのオフィスで仕事中の小林博先生、2014・4・10)

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito66・太古の海牛に魅せられた札幌市博物館活動センター学芸員の古沢仁氏

 札幌市には正式な市立の博物館が無い。以前同市に博物館を新設する話があり、検討が行われたのだが予算の関係で計画は凍結されたままである。しかし、将来の博物館建設を視野に入れて、博物館の「活動」を行うセンターがあり、展示物を市民が自由に見学できる。場所は北一条通に面した旧札幌市立病院の建物内である。この建物は2年後には取り壊される予定で、活動センターは平岸の児童発達センター「かしわ学園」の移転跡に移る予定である。
 活動センターは都心部にあることも手伝って、ときどき覗いてみる。ここの一番のお宝は、当時小学生だった女の子が豊平川で発見して「サッポロカイギュウ」と名付けられた大昔の海牛である。その海牛に関する研究を続けて来ている学芸員の古沢仁氏を訪ね、インタビューとパノラマ写真撮影を行う。
 活動センターには市の職員の学芸員が二名居り、古生物学専門の古沢氏と植物学専門の山崎真実さんである。古沢氏は1956年札幌生まれで、北海道札幌北陵高校(1期生)から北海道教育大学に進学する。大学では自然科学科の地学を専攻した。卒業後札幌市手稲中央小学校の先生として赴任したけれど、1年間で勤務先を変えることになる。深川市でのクジラの化石の発掘調査に関わり、滝川市でも同様な化石が発見された時、これをクジラの骨と見立てた。しかし、これは海牛の化石で、この誤認から滝川市が博物館施設を創る計画に乗り学芸員として滝川に移り、滝川カイギュウの研究を行った。
 滝川市での仕事も一段落し、今度は旭川市の高校の夜間の教師となり、昼間は旭山動物園でのプロジェクトに関わったりしながら、自宅での古生物の研究を続ける。そうこうしているうちに沼田町で海牛化石が発見され、昼間は沼田町での作業、夜は旭川での教師の生活となる。この状況で沼田町の学芸員の声が掛かったのを機に沼田町に勤めて研究を続け、1998年に札幌の現在の職場に移っている。札幌では前述の市の博物館新設の計画・検討に加わった。
 インタビュー中の古沢氏の口から古生物の名前がチラリと出てきても、聞いたこともない名前である。古沢氏は2002年度に鹿児島大学から論文博士で学位を授与されている。博士論文を見せてもらうと論文題目は「海牛目ジュゴン科(Sirenia:Dugongidae)絶滅した2亜科(HalitherriinaeとHydrodamalinae)の系統と進化」で専門用語が並び、会話に用語が出てきても素人にはどんなものか理解が及ばない。
 パノラマ写真は、現在研究中の豊平川から掘り出されてきて、クリーニングが終わっているクジラの骨格化石の一部の横に立ってもらって撮影する。現在のクジラの骨と比較して、数倍も大きな骨の化石を説明してくれる。この化石はほぼ一体分が見つかっていて貴重な標本であるらしい。以前、道新文化センターの都市秘境散策講座で講座受講生と一緒にここを訪れた時、大きな岩石の塊から化石を取り出す作業を見学しているけれど、このクジラの化石だったようだ。それにしても遠い昔に生きていた海中の動物の化石を相手に、研究を続けていくのは気の遠くなる話である。
 古沢氏は趣味として絵を描くそうである。沼田町の仕事場で絵を描いているところが出版社の編集者の目に留まり、福音館書店の「月刊たくさんのふしぎ」の第172号(1999年7月号)の「時をながれる川」の絵本として出版されている。絵と文は古沢氏である。沼田町を流れる幌新太刀別川で発見される化石から、大昔この川や周囲の山が海の底にあった時代に、海牛やクジラが泳いでいた様子が描かれている。絵本を見た子供たちが時を遡り、想像の翼を広げる様子が見えてくる。教員として小学校の児童は教えられなかった代わりに、学芸員の目を通した絵本を出版して、児童に太古の物語を語り聞かせている。


HPFhito66%E3%83%BB%E5%8F%A4%E6%B2%A2%E4%BB%81%E6%B0%8FA.jpg

(クジラの化石の横に立つ古沢仁氏 2014・4・10)

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito65・IT街工場にエンジニアの理想郷を求めるサイレントシステム取締役中本伸一氏

 技術力を持った中小企業の町工場が集まるエリアで、共同で新技術に挑戦する報道に接することがある。これに対して、IT業界での物作りでは町工場の話はあまり耳にしない。しかし、インターネットが発達してきた現在、街中のマンションの一室が工場のようになって、IT製品が作られているのである。これはIT街工場とでも呼べるだろう。
 (有)サイレントシステムはこのIT街工場である。この会社には、中本伸一氏と岡田節男氏のエンジニアが二人だけ働いている。中本氏がソフト、岡田氏はハードを担当し、コンピュータ及び電子デバイスの製造販売を行っている。会社は2005年に設立されている。
 1956年札幌生まれの中本氏は月寒高校から北大に進学している。工学部電気工学科に移行し、所属の研究室は筆者のところであった。在学中に、後に全国規模のゲームメーカーになるハドソンに入りびたりで、北大を卒業せずにハドソンに勤める。マイコンが出始めの頃はHuBASICを作ったり、後にハドソンの売れ筋のゲームを開発したりした伝説的エンジニアである。会社では副社長にもなっている。
 ハドソンは工藤裕司、浩の兄弟社長で経営されていたが、北海道拓殖銀行の破たんで資金繰りに躓き、コナミの傘下に入り、2012年にはハドソンの社名も消えた。ハドソンが無くなる以前に同社を離れた中本氏は、組織の制約を受けない形で物作りができるエンジニアの理想郷を目指し、前述の会社を設立している。マンションの1室でも工場のようにIT製品を作れると聞いていたので、その現場でパノラマ写真を撮らせてもらう。
 マンションの部屋に入ると、製品開発のためのパソコンや測定器が並んでいる。シンクロスコープ、スペクトルアナライザー、無線の送受信機etcとある。オリジナルな製品を設計し、回路図をネットで送ると出来上がったチップや基盤が郵送されてくる。それを必要部数半田付けし、ケースに入れて完成品にする。販売もネットで行い、会社のHPに製品のラインナップが表示されている。製品としてセンサーボックス、ワンチップサーバー、無線通信モジュールとこれまで開発された数多くのものが並んでいる。
 売上高の規模を尋ねてみると、年商1000万円ぐらいだろうとのことである。中本氏はCQ出版のライターとして原稿の依頼があり、スカイマークのIT監査役を勤めていたりで、収入を全面的に会社に依存している訳でもないようである。技術者として好奇心を満足させてくれる製品を開発している、といったところである。これがエンジニアの理想郷という謂れである。
 中本氏は好奇心旺盛で、現在はビール造りを行っている。地ビールメーカーの小樽ビール肝煎りでビールコンテストがあり、個人が造ったビールの品評会参加が楽しいと言っていた。以前には陶芸に凝っていた時があり、こちらは造形よりは釉薬による色出しが、酸化雰囲気や還元雰囲気でどんな風に変わるかといった、化学の世界に興味があったようである。
 ウォーキングも趣味に入っていて、空知単板工業主催の100キロウォークやオランダのナイメーヘンの200キロウォーク(フォーデーマーチ)参加の話が出てくる。ウォーキングの裏ワザなどを聞いていて、筆者も何かのウォーキングに参加してみたくなってくる。
 考えてみると、大学の研究室に顔も出さず、大学を中退した中本氏であるけれど、大学を離れた中本氏とは時々海外旅行を行っている。北海道マイクロコンピュータ研究会のメンバーで参加した1981年のサンフランシスコでのウェスト・コースト・コンピュータフェア旅行、2000年のソウルでのeシルクロードの日韓の会議、2005年の中国成都市パンダ繁育研究センター視察旅行とある。そしてパノラマ写真風土記にも登場してもらい、この記事を書いていて過去の旅行の思い出が浮かんでくる。


HPFhito65%E3%83%BB%E4%B8%AD%E6%9C%AC%E4%BC%B8%E4%B8%80%E6%B0%8FA.jpg

(サイレントシステムの中本伸一氏、2014・4・8)

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito64・北海道のデジタル出版の音頭取りをする中西出版・中西印刷社長林下英二氏

 札幌テレビ放送(STV)のラジオ番組に「ほっかいどう百年物語」というのがあって、時々聴いている。ラジオ放送された北海道の歴史的人物がまとめられ本となり、中西出版(株)から刊行されている。これは同社の売れ筋のシリーズ本になっている。中西出版社長の林下英二氏の経歴を見せてもらうと、STVラジオの番組審議委員を務めておられた時期があった。「ほっかいどう百年物語」がとりもつ縁かな、と推測する。
 中西出版は自社刊行本を新聞広告に出す数少ない札幌の出版社である。社名は聞いていたけれど、これまで訪れる機会のなかった同社に出向き、社長の林下氏のパノラマ写真の撮影をお願いする。林下氏とは紀伊国屋書店札幌本店での自費出版本のフェアでお会いしていた話が出たけれど、筆者はすっかり忘れている。そのフェアで購入されたという筆者の爪句集豆本がテーブルの上に並べられ、筆者も最近刊行された爪句集を贈呈して、出版に関する四方山話となる。
 出版不況が言われてから久しい。地方の中小出版社は出版業だけでやっていくのは難しい。中西出版は中西印刷(株)がグループ企業としてあるので、印刷業の儲けで出版業を支えている構造になっているようである。その中西印刷の社長も林下氏である。林下氏のパノラマ写真を撮ることは後回しにして、パノラマ写真をQRコードで見ることのできる爪句集を前にして、パノラマ写真を素材にした本の出版はどうか、といった話をする。
 中西印刷は一昨年(2012年)創業100年周年を迎えたというから、この業界では老舗である。社史によれば創業者の中西應策は北海道写真製版の元祖と言われている。應策から数えて9人目の社長が林下氏となる。中西印刷内に1986年同社出版事業部が設けられ、それが1988年に独立して出版会社となっている。
 林下氏は1950年に札幌で生まれている。札幌光星高校から慶応大学に進み、法学部卒業後少し間を置いて中西印刷に就職している。林下氏の親戚が印刷に関わっていた影響もあり、印刷業をやってみたいという希望が中西印刷への就職につながる。同社に勤めた林下氏は、2003年に中西出版社長、2005年に中西印刷社長となる。
 林下氏は会社の取り組むテーマを3Pで表している。Printing(印刷)、Publishing(出版)、Planning(企画)である。どれも技術革新が絡むテーマで、具体例の一つとして電子書籍出版がある。林下氏は北海道デジタルデ出版推進協会の代表幹事も務められている。同社では「おばけのマールとまるやまどうぶつえん」(作:けーたろう、絵:たかいれい、2005年)の電子書籍を出版しており、北海道での電子出版の先駆けとして新聞にも取り上げられたのを記憶している。筆者も、パノラマ写真は紙メディアと電子メディアをつなぐ出版物の一つになる、とコメントする。
 目的のパノラマ写真は社長室で撮らせてもらう。社長室のテーブルにフクロウの置物が並んでいる。どうしてフクロウの置物のコレクションがあるか聞いてみる。中西印刷のシンボルマークはフクロウで、中西出版も同じフクロウマークを採用したので、フクロウグッズが集まってきているようだ。出された林下氏の名刺にもロゴマークの本を読むフクロウが印刷されている。
 帰り際に渡された社内誌はフクロウを意味する「あうる(OWL)」が誌名になっている。筆者は昨年(2013年)設立された「北海道シマフクロウの会」の会員になっていて、爪句集豆本のテーマの一つにフクロウを考えていることもあり、林下氏に提言する。何かフクロウに関する写真を撮り、短い説明文と爪句を付けた原稿を書いて、爪句集の共著者に加わらないかと。さてこの爪句集プロジェクトは実現するかどうか、近い将来に成否が見えてくるだろう。


HPFhito64%E3%83%BB%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%87%BA%E7%89%88%E6%9E%97%E4%B8%8B%E6%B0%8FA.jpg

(社長室での林下英二氏、2014・4・7)

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ

HPFhito63・札幌初のワイナリー「ばんけい峠のワイナリー」社長の田村修二氏

 北海道新聞(2014・3・27)に、東日本大地震の津波被災地岩手県野田村の山ブドウで醸造したワインの販売記事が載っている。醸造・販売を行うのは「ばんけい峠のワイナリー」で、社長の田村修二氏の写真入りの記事である。田村氏は顔見知りなので、販売日である3月下旬の日曜日に同ワイナリーに出向いて、田村氏のパノラマ写真取材となる。
 田村氏は札幌市内に住み、ワイナリーには車で通っている。氏の到着少し前にワイナリーの近くに車を止め、夫人と一緒に車でやって来た田村氏を見つける。ワイナリーの開店準備の間、まだ雪に埋もれているブドウ畑とワイナリーの建物のパノラマ写真を撮る。
 ブドウ畑の見えるテラスで田村氏のパノラマ写真を撮らせてもらう。このテラスは昨年(2013年)道新文化センターの受講生らと訪れ、ワインの試飲をさせてもらったところである。例年の雪ならテラスのビニル屋根の雪が落ちるのに、昨年の大雪では屋根の支柱が折れてしまったので、屋根のこう配をもっと急にして雪を落とす必要があると話されていた。
 田村氏は1940年東京生まれである。田園調布高校から東大に進学し、工学部応用化学科を卒業後、通商産業省(通産省、現経済産業省)に勤めた。通産省は、大学の専攻に関連して石油化学産業育成の仕事ができると考えたことによるそうで、国内に石油コンビナートを造るに際し、海外の先進技術導入するためアメリカに出張して技術移転の仕事をされる。
 札幌と縁がつながったのが1984年で、札幌通産局の商工部長として赴任された。札幌で2年間勤務後本省に戻り、その後環境省勤務となりここで定年を迎える。定年後は通産省時代に経済開発機構(OECD)のパリ本部で仕事をしていた経験も生かして、海外技術交流に関わるコンサルタントに携わり、その後北大の客員教授にも招聘され、札幌に生活の場を移している。
 札幌では持論の地場の資源を活用した企業育成の研究拠点として、盤渓峠に土地と研究棟を確保し、フィールドテクノロジー研究室を開設している。北大時代に江部乙のリンゴ農家からシードルが作れないか相談され、大学で実験までしたが醸造の許可が得られなかった。ところがこの研究室の横に買い求めた土地がたまたまブトウ畑で、このブトウを使ったワイン醸造を実現でき、これが現在のワイナリーに発展する。ある意味偶然で、札幌の第1号のワイナリーが誕生したことになる。
 ワインを商品にするワイナリーにはいくつかのバリアを越えなければならない。ワイナリーの許認可権は国税庁にあり、酒税を課す関係から最低6000リットル、720ミリリットルのビン詰め換算で8000本が最低生産量として要求される。田村氏は事業に先立って、この数量のワインが売れ残ったら、夫婦で1日何本飲んだらよいか試算してからワイナリーを始めた、と冗談半分で話されていた。
 ワイナリーは現在の場所に2001年にオープンし、今ではバスの停留所も峠のワイナリーの名前が付けられている。ワインの他に江部乙産のリンゴによるリンゴ酒(シードル)も商品化している。酵母菌を殺菌せずに生かしたままのワインは飲み頃を調節して楽しめる反面、長期保存には向かない難点もある。ワイン通が薀蓄を語ることのできるワインなのだが、ワインにはさほどの知識を持ち合わせていない筆者は、簡単な質問程度しか頭に浮かばない。
 写真撮影の合間に奥様手造りのハスカップの実を挟んだケーキが出され、これが美味しかった。このケーキはこれだけが売られているものではなく、テラスで客がコーヒーを注文した時に出されるものである。訪れた3月の下旬はワイナリー横のブドウ畑は未だ雪で埋まっていたけれど、もう少し経つとブドウ畑も新緑につつまれ、パノラマ写真を撮ったテラスから盤渓の自然景観が楽しめる。その眺めの中でのワインやコーヒーとこのケーキは、隠れ家の“峠の茶屋”の極上の一品である。


HPFhito63%E3%83%BB%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%B0%8FA.jpg

(ばんけい峠のワイナリーのテラスでの田村氏、2014・3・30)

カテゴリー: 人物編 | コメントをどうぞ