薬学部の南側に薬草園がある。薬学部付属の研究施設であり関係者でもないと入園できない。ただ、北大祭の時は一般市民に開放されているので入ってみる。6千 ㎡を超す広さの園内に千を超す標本植物が育てられている。寒冷地は薬用植物の宝庫であり、北海道は薬用植物栽培の適地である。薬用植物の知識を持ち合わせてはいないけれど、園内を見て回りパノラマ写真を撮る。見学者はまばらで、芍薬の花を観賞していたりする。芍薬も文字通り薬草の一種である。(2014.6.7)
芍薬は 薬草なりと 確認視
薬学部の南側に薬草園がある。薬学部付属の研究施設であり関係者でもないと入園できない。ただ、北大祭の時は一般市民に開放されているので入ってみる。6千 ㎡を超す広さの園内に千を超す標本植物が育てられている。寒冷地は薬用植物の宝庫であり、北海道は薬用植物栽培の適地である。薬用植物の知識を持ち合わせてはいないけれど、園内を見て回りパノラマ写真を撮る。見学者はまばらで、芍薬の花を観賞していたりする。芍薬も文字通り薬草の一種である。(2014.6.7)
芍薬は 薬草なりと 確認視
秋山記念生命科学振興財団理事長の秋山孝二氏は多くの公職を抱えておられる。その一つに伊藤組100年記念基金の評議員があって、同じ評議員として評議委員会で席が隣になった。これは良い機会だと秋山氏のパノラマ写真撮影をお願いする。
前記財団のオフィスは北1条宮の沢通に面していて、オフィスの隣の「かんてんぱぱショップ宮の森店」を道新文化センターの都市秘境散策講座の受講生と訪れたことがある。しかし、店の隣の建物が秋山氏のオフイスであることは露知らずであった。
財団のオフィスということで、事務所の雰囲気を予想して行ったのが、立派な邸宅風であったのが意外であった。後で聞くと旧「秋山愛生舘」の4代目社長であった秋山喜代氏が晩年住んでいた家とのことである。この喜代氏個人の出捐金2億円で現在の財団がスタートしている。孝二氏は同社の5代目社長で、喜代氏は孝二氏の伯母に当たる。
秋山孝二氏は1951年に札幌市で生まれ、札幌南校から1970年千葉大学教育学部に進学している。大学進学の年は大学紛争で東大、東京教育大の入試は行われなかった。大学卒業後東京江戸川区立鹿本中学校の理科の教諭になっている。1979年秋山愛生舘に入社し、1992年に同社社長、1998年に(株)スズケンと合併し同社副社長、2002年に退社している。
秋山氏が退社した翌年2003年の4月には札幌市長選が行われ、7名が立候補した。市長選に一番先に名乗りを上げたのが秋山氏であった。混戦の選挙は政令指定都市初の再選挙となり、上田文雄現市長が当選した。秋山氏は再選挙には出なかった。選挙後、秋山氏は秋山不動産有限会社の社長となり、2013年には会長となっている。
ネットで秋山氏の公職のリストを見て、ワグナー・ナンドール記念財団理事長というのを見つける。円山公園に隣接してあった市長公邸が解体され、跡地にハンガリー人のワグナー・ナンドールのブロンズ像の作品「母子像・ふるさと」が寄贈され設置されている。時々目にする彫刻で、同氏と彫刻家の関連を尋ねてみる。女系家族の秋山家の長女が喜代氏、3女が孝二氏の母の寿美氏、4女のちよ氏が同彫刻家と結婚している関係で、孝二氏が栃木県益子町にある前記財団の理事長に就いている。
2年前の2012年7月に秋山氏に勉強会「eシルクロード大学」の講師をお願いしたことがある。テーマは「エネルギーと環境」で、北海道経済同友会幹事の秋山氏が原発を止めて「自然エネルギーアイランド北海道」を提唱されていたのが印象に残っている。北海道市民環境ネットワーク理事長の立場で考えた末の結論だったのだろう。
これだけ多くの公職を抱えていれば趣味などに使う時間もないだろうとは思ったけれど、一応は趣味についても聞いてみる。案の定、仕事が趣味のようで、この話は続かなかった。それにしてはパノラマ写真撮影後、色々と話し込んで時間が過ぎていって、人と話をするのが氏の趣味なのかも知れないと思った。
(財団オフィスでの秋山孝二氏 2014・6・5)
大学祭といっても祭りには変わりなく、祭りには屋台がつきものである。売り買いする行為はコミュニケーションの原点であり、屋台の模擬店はその舞台装置といったところか。大学では学生個人にコミュニケーション術を教えることはしないだろうから、大学祭はぶっつけ本番でその訓練をする場になっているのかもしれない。それにしてもよく2,3日間の大学祭のために多くの模擬店が出ている。こちらはは物事をやり遂げる企画力と実行力の訓練になっているようだ。(2014.6.6)
売買は コミュニケーション 成果如何
建屋撮る カメラ横切る 輪行生
道新文化センターの講座の見学先の公共政策大学院の建物のパノラマ写真を撮る。パノラマ写真では8枚の写真を機械的に撮って後で貼り合わせる。その1枚に自転車に乗った女子学生が飛び込んで来て写っていて、面白い。(2014・6・2)
後継は 木より人なり 楡学府
大学本部前の大きなハルニレの横に口を上にした網が置かれている。説明文に「明治38(1905)年新渡戸稲造夫人メアリー氏より寄贈されたハルニレは、植樹後109年が経過し老木となり、後継樹育成のため、種子を採取中」とある。(2014・6・2)(パノラマ写真)
春緑 夏緑へと 衣替え
6月上旬は春と初夏の境目である。年によっては未だ春の寒い日もあれば、もう夏かといった暑い日もある。しかし、構内の緑は確実に濃くなって来ている。メインストリートの楡の木も、若木も老木も夏に向けての緑の衣替えである。(2014・6・2)
黒百合は 今年も咲いて 新名所
北大に「黒百合会」という伝統の絵画サークルがある。東北帝国大学農科大学(後の北大農学部)教授だった有島武郎が学生らと始めた会である。名前に因んで黒百合の群生地を作りもう8年目で、構内の新名所に定着している。(2014・6・2)
「ばんけい峠のワイナリー」社長の田村修二氏から札幌のIT産業に関する話を聞きたい、という申し出があり出かける。聞き役は田村氏の他に北海道医薬総合研究所会長の本間克明氏と書記役の喜多晴香さんである。田村氏が30年ほど前に著した「北海道産業論序説」の復刻版を本間氏が出版し、田村氏がその続編を考えていてIT産業も参考にしたい、とう話の流れである。
田村氏の方はパノラマ写真を撮って取材は終えていたので、今度は本間氏の取材を申し込み、田村氏のところを訪れた翌日に撮影と取材を行った。本間氏の会社は地下鉄東西線24軒駅の近くにある。本間氏にオフィスで机のところに座ってもらいパノラマ写真を撮る。
本間氏は1954年旭川市生まれである。旭川の高校から北海道薬科大学に進学する。同大学の第一期生として卒業をしたが、病気のため就職せずに修士課程に進んでいる。修士修了後は当時の秋山愛生舘に勤め、1990年には室蘭で薬局として独立する。翌年には札幌に進出している。その後「なの花薬局」で知られる会社と合併して出来たファーマホールディングスの代表取締役会長も勤めている。同社は九州の会社とも合併し全国332店舗(内道内110店舗)を擁する全国規模の薬局となっている。
本間氏の名刺には薬剤師の他に薬学修士と経済学修士が記されている。2000年に北大経済学部が新制度として発足させた社会人枠の修士課程に入学した。個人経営の薬局なら薬剤師の資格だけでやっていけるが、多くの薬局に目を配らねばならなくなると、経営とか経済の仕組みとかの知識が必要になると考えて、経済学修士号取得となる。
現在力を注いでいるのは、薬局経営の資格を取得するためのテキスト作りである。既に「薬局薬剤師における在宅業務マニュアル」(㈱コムファ在宅推進委員会)等のテキストとその改訂版を出版してネットで販売している。「登録販売者合格教本」(本間克明、本間技術評論社)などの著作もあり、著述業でも忙しいようである。
話を趣味に向けると、すかさず男性合唱団「ススキーノ」の公演ビラが出てくる。ビラには第10周年記念とあって、ススキノでの飲み会から始まったこの合唱団は10年間続いている。ビラにある惹句「俺たち青春の真っ只中」をやっておられるのだろう。
(オフィスでの本間克明氏、2014・5・27)
無名会というホテルでの朝食を摂りながらの勉強会に出席している。主宰者は元北海道拓殖銀行常務の石黒直文氏である。会のメンバーの一人に元北海道知事の堀達也氏がおられ、時々顔を出される。堀氏が出席の回でたまたま席が隣り合わせたので、パノラマ写真撮影を依頼する。勉強会が終わってから同氏のオフィスに出向く。
都心部のオフィスビルの2Fに氏のオフィスがある。このオフィスとつながって、在札幌スペイン名誉領事館の部屋があり、堀氏はスペイン名誉領事を務めている。現在の堀氏の公職は道体育協会会長、道森と緑の会理事長、北方領土復帰期成同盟理事長などで、このオフィスはそれらの公職のために用意されたものなのだろう。
オフィスでパノラマ写真撮影後短時間のインタビューに入る。生まれは1935年で、出生地は樺太(現ロシアサハリン州)である。終戦と同時に遠軽に引上げて、遠軽高校から北大に進学している。引上げ時は10歳であったので、樺太の記憶はあり、サハリンを訪問した機会を利用して生地ボロナイスクを訪れて見たかったそうである。しかし、州都ユジノサハリンスクから生地までは遠く、訪問の機会を逸したとの話である。
北大農学部林学科卒業後北海道庁に入庁して林務部で仕事をし、知事室長、道公営企業管理者、横路孝弘知事の下で副知事、1995年に北海道知事選に出馬して当選する。この時の選挙戦で争った相手は衆議院議員伊東秀子氏である。当時筆者は堀氏よりは伊東氏に面識があった。
知事時代にもっとも印象に残った出来事はと聞くと、やはり拓銀の破たんとの答えが返ってくる。知事を2期8年務めて知事職を辞し、その後札幌大学理事長、北海道開拓記念館長等を務めている。知事時代の回想録の執筆はしないのか聞いてみると、インタビューに応じた「北海道知事という仕事」が出版されていた。1万部印刷されたそうで、道内出版物としては部数が多い。しかし、この著作は読んではいない。
ゴルフが好きなようで、ゴルフを話題にすれば話は発展するのだろうけれど、当方ゴルフのクラブも握ったことはないので、話を向けるのは無理である。若い頃の仕事が森林に関する事であったので、北海道の山は至る所分け入っているそうである。しかし山登りで頂上を極めるといった事ではないようである。70才頃まではゲレンデスキーを楽しんでいた。
ネットで検索して堀氏の記事を読むと、政治家としては当然ながら、毀誉褒貶がある。ここら辺の事を聞いてみたい気もしたが、目的はパノラマ写真撮影なので、インタビューは世間話程度で終える。パノラマ写真を合成してみて、笑顔の堀氏が写っていて安心する。
(2014.5.22 オフィスでの堀達也氏)
今年(2014年)4月から始まる道新文化センターの「身近な都市秘境を歩いてみよう」は11期目になる。今期の講座の見学先の一つとして「道立アイヌ民族文化センター」を候補にして交渉していた。見学場所がこの一つでは参加者は満足しないかと、近くの北大植物園内にある北方民族資料室も見学先に加えることにする。
下調べで訪れた植物園は冬期休園中で、温室だけが開放されている。温室で植物園長の冨士田裕子(ひろこ)教授の名前を聞いて、予約無しで訪ねてみる。冨士田先生の部屋は前述の資料室と同じ建屋にあった。部屋の内はいかにも大学の先生の部屋らしく、本や資料の山である。こういう雰囲気をパノラマ写真に撮りたいと思ったけれど、これは断られるだろうな、とも予想できた。
初対面の冨士田先生に見学とパノラマ写真撮影の件をお願いする。見学の方はOKで、指定の様式の見学依頼書を送ることで片がつく。パノラマ写真取材の方は、4月下旬の開園後、日を改めて園内の適当な場所で、ということになった。
5月の中旬、受講生を連れて植物園を訪れる。資料室の説明は植物園のスタッフの加藤克(まさる)助教にお願いする。加藤先生は北大文学部から博士号を授与されている。植物園に文学博士のスタッフとは、事情を知らないと奇異に感じる。加藤先生は元々歴史の研究をしており、植物園内には北方民族資料室の他にも博物館があり、植物そのものも歴史的研究の対象になる、と聞くと少し納得である。
講座参加者が資料室を見学している短い時間に、植物園の初代園長の北大教授宮部金吾の記念館横に立ってもらい、冨士田先生のパノラマ写真撮影である。バックにライラックの大きな株が花を咲かせようとしている。このライラックは、北星学園に発展したスミス女学校を創設したアメリカ人宣教師サラ・スミスが故郷から運んだものである。札幌最古のライラックのお墨付きの名木である。
冨士田先生のインタビューは、先生に植物園を案内してもらうついでに立ち話程度で行い、後はネット情報で補強する。生まれは仙台市である。東北大学の農学部農学科を卒業してから同大学院理学研究科博士課程に進学し、理学博士号を取得している。その後新潟大学の助手、1989年に北大農学部の助手として植物園勤務となり、助教授、先月4月(2014年)に北大教授となっている。
植物園の園長だった故辻井達一教授の下で研究に従事していて、辻井先生の専門の湿原の生態や環境に関するテーマを引き継いで研究を続けている。研究の性格上、湿原でのフィールド研究が多いようで、パノラマ写真撮影の日の前日まで、女満別の網走湖付近の湿原調査に行っていたとのことである。
2010年には、尾瀬湿原を保護する活動を行っている尾瀬保護財団から第13回「尾瀬賞」が贈られている。同賞を受賞するのは女性としては初めてである。絶滅危惧種の動植物や消えて行く自然環境を対象にした研究は息の長い仕事で、持続力のある女性の研究者に向いているのかも知れないと思ったりする。
猿払湿原などにも足を延ばして調査研究をされている。北海道の地図を広げて、猿払の地名を追い、この辺地に広がる湿原を想像しても、訪れた経験が無いのでリアリティに欠ける。北海道の広大な土地に広がる渺茫とした湿原を研究対象に選んだ研究者から見ると、植物園の手入れされた環境は人工の塊に見えてくるのではなかろうか。そこら辺のところを聞いてみるには時間切れであった。
(北大植物園での冨士田裕子教授、2014・5・14)